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《日本語のルーツ「土佐弁」》 ★感嘆詞⇒げに まっこと お~の たま~ あっぽろけ しもうた ばっさり やまった なんちゃあ いうたち ★代名詞⇒あて あし おまん おんしゃ ★名詞⇒いられ どくれ もがり いちがい おらんク おまんク ひとんク あしんク あいちゃぁんク ちゃりす ほげす てんくろう くそじんま ごくどー ひいとい ようだい ばいあい まちまい いこじ いごっそう はちきん わかいし わりことし ★副詞⇒しょう こじゃんと どだい たまるか たいちゃ びっしり ぎっちり ぼったり ばっつり ぼっちり ちっくと しゃっち ざんじ しゅっと めっそ ひっしかっぱ ひがち さいさい ★形容詞⇒へごな のかな へすこい ひやい ぬくい みぞい しわい いそしい えずい やりこい ちんな たっすい したらこい むつこい たいそい めんどい あやかしい むつい またい かあくろしい ばばひい およけない とろこい ほうやくな しんよい ★動詞⇒ひせくる びちくる ぞぶる まぎる ちゃがまる たれもつる たごる ねぶる りぐる かやる のうがわるい ほたえる そばえる たつくる うまえる えぜる ロイつく えつくる さらばえる ほりこかす はりまわす めった いぬる ぞ~くそわるい しのべる くるめる ばぶれる いこる ゾンゾンする しゅんじゅう こたう ★語尾⇒ちゅう にゃあ ちや ぜよ じゃいか やき じゃき ★活用例:こじゃんと ぞ~くそわるい(私は非常に気分が悪い) ・ちっくと待ちよってや!今からざんじいんでしゅっと来るき(ちょっと待っててね、今からすぐに家に帰って、それからまた来るから) ・さいさい来てや!(暇があったら酒の肴でも持って、いつでも飲みに来てね)
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石谷重信とは一体、何者ながやろうか。息子が香我美町徳王子の徳善(とくぜ)城主であった公文正信の養嗣子になっちょります。

徳王子いうたら前回元親と龍馬をつなぐミノで書いた、古代から栄えた熱帯ジャポニカの古代都市。公文いうたら公文書を扱いよった古代からの有力氏族。その公文氏に養嗣子を入れられる石谷重信とは誰?

3 土佐中央部の古社と奉斎者(古樹紀之房間)にはかなりおもろいことが書かれちゅう。

確かこの前、馬楽さんが言いよったような気がする。

石谷重信は、細川氏の庶流・天竺氏の家臣であったらしいき、藤原氏となんらかの関係があったやろうと思う。
古樹紀之房間には、小村神社の神職が公文氏であったとも書かれちゅう。末裔に公文式創始者の公文公さんが出ちゅうき、日本書紀や古事記、はたまた風土記を編纂させられた皇室直属のブレーンやったがやないろうか。



土佐藤(土佐の藤原氏)と言われた土佐七雄の大平氏が入ったがは高岡郡蓮池。

子孫の大平弾正は、元弘の変で配流された後醍醐天皇『ウィキペディア(Wikipedia)』の皇子・尊良親王『ウィキペディア(Wikipedia)』をかくまっちゅう。それほど藤原系の血が濃かったということ。後醍醐天皇の奥さんも、母親も藤原氏やったき。

本能寺の変まで続く藤原北家の内紛は既にこの時に始まっちゅう。

大平国雄が外港の宇佐から堺に大船を往来させて、貿易の利を占め、富強やったというき驚き。

ほんで尊良親王の第二皇子・基良親王は二条良基の養子になっちゅう。二条良基いうたら一条兼良のおじいちゃん。奥さんが土岐頼康の娘やき、この時、既に藤原北家の皇室テクノクラート『一条氏・土岐氏』の土佐・美濃タッグができちゅうわけです。

やき、おそらく石谷重信と石谷頼辰(いしがい よりとき)はつながっちょって、山崎の合戦後・長宗我部に仕えたが決して偶然やないと思う。


①大平国雄がただならぬ京との皇室パイプを持っちょったこと

②石谷頼辰の土佐下向は、土佐の神職・公文氏とのパイプがあってなされたものであり、そのつながりはもっと古い時代に遡ることができる


これを考えると、夏草の賦『ウィキペディア(Wikipedia)』の時代考証がむちゃくちゃなことがわかる。夏草の賦の中で土佐は非常に遅れた野蛮な地域で、元親の妻・奈々が土佐に下向する時、アフリカのジャングルにでも行くかのように書かれちゅう。

それと現在まで続く明智光秀逆臣論というがは、全くの間違いでもある。藤原姓は天智天皇にもろうたもんであって、天皇の警護である藤原氏がこともあろうに帝に弓を引くとは何事かと光秀が代表して藤原信長に諭したがが本能寺の変の引き金であったがやないかと思う。

もっと哲学的にいうたら、藤原氏とは何ぜ?なんのための戦いで?という深遠なテーマが室町・戦国期に持ち上がってきたがやないでしょうか。これはおもろいことに幕末期にも武市半平太を通して出てくるがよね。両方に共通するがは夷敵襲来(元寇・黒船)というキーワード。


元寇から日本を救ったがは神風。

黒船から日本を救いつつあるがは、神風特攻隊。

ほんで、しなね様は風の女神。


さらに中臣鎌足が藤原姓をもろうたがは白村江の戦いで唐・新羅軍に敗れた6年後の死の直前。さらにさらに1年間の神風を起こしたがは現代の藤氏長者・細川護熙氏『ウィキペディア(Wikipedia)』細川氏を取り巻く氏族と土佐の関係も、あなどれん。


新たな夷敵・宇宙人を日本に呼んだ鳩山由紀夫。再びやってくるとそれを警護するの問題。



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”元親と龍馬をつなぐモノ”のことを昨日書きましたけんど、自分的にはもう少しいじくって”元親と龍馬をつなぐミノ”という風にしたいと思います。

元親と龍馬をつなぐモノとして、全然関係ないように思われますが、山内家も重要です。山内家も光秀と同様、美濃の出身で、家康に取り立てられて土佐にやってきます。

吉田東洋が山内家の遠い親戚やったき、重用されたなんていうお話も宅間館長からありましたが、土佐は古くから南向きの内湾を持つ『美濃・尾張・三河』や『相模・武蔵』とこじゃんと密接な関係があります。

この謎を解くがが”黒潮海人族”であり、アテナイの文化を享受する以前にフェニキアの海人族の文化が根づいちょったがですね。

このアテナイのギリシャ・ローマとフェニキアは淡路島によく似たシチリア島の領有権を巡って衝突するわけですが、どちらにも渦潮が存在します。

日本神話がなぜ、淡路島から始まるかは、ギリシャ・ローマとフェニキアの関係を調べたら半分くらい理解できます。

土佐と美濃、相模の深いつながりは、実はその頃から始まっちょって伊豆の制海権を握っちょったとされる悪神・天津甕星は常陸でヤマト朝廷に討伐され、美濃付近の両面宿儺も、そして土佐の八面大王も、次々と帝政ローマの帝国主義思想によって滅せられていきました。


ここまで考えて初めて、なんで元親・信親親子が色白・長身・美男子で秦の始皇帝の末裔を公言しよったかがわかってくるがやないかと思います。

中国はあまり公にはしませんが、秦の時代の人夫の中に白色人種が紛れ込んでおり、少なくとも秦が共和制ローマの影響を受けちょったことは間違いがないわけであり、それから数百年後にはネストリウス派も唐に根付いたわけやき、現代人が考える以上に地中海沿岸と極東との宗教意識や文化レベルにはほとんど格差がなく、西洋・東洋という価値観が出てこんほど東と西の文化融合は深いものであっただろうと思います。


そういうイメージを沸かさんようにしちゅうのは、”進化論”や”大航海時代”という西洋の間違った学問であり、それらを糺すためにも”元親と龍馬をつなぐミノ”の風を土佐から起こしていかないかんと思います。


これが学術的に何を示すかというたら、日本の文明の形成には朝鮮半島経由と黒潮経由の2つの文化伝播ルートがあったということ。

お米雑学にも書かれている通り、米の伝播ルートである朝鮮半島経由の温帯ジャポニカと黒潮経由の熱帯ジャポニカは、平安時代頃まで混在して栽培されていたそうなんですね。

街づくりカフェ・街カフェTVの藤島さんは、この2つの伝播ルートを仏教に焦点をあてて北伝・南伝と呼んじょりますが、自分はお米の伝播『ウィキペディア(Wikipedia)』にこじゃんと興味があります。高知の二期作はおそらく、ものすごく古い起源を持っちゅうと思います。

朝鮮半島経由のほとんどの先進文化が温帯ジャポニカとともに日本に入ってきましたが、じゃあ一体、熱帯ジャポニカとともに日本に入ってきた文化はなんやったが?というところですね。

お米雑学の中でも言及されちゅう高知の登呂遺跡と言われる下分遠崎遺跡からは熱帯ジャポニカが出てきちゅうがです。それだけならまだしも下分遠崎遺跡がある香我美町は都の造りをしちゅうき、さあ大変ということながです。

正規の日本史では朝鮮半島経由の文明から日本人は文明を享受して律令国家を形成していったとされちゅうき、熱帯ジャポニカの連合国家があったらいかんがですね。

結果を先に言うたら、結局、朝鮮半島経由の温帯ジャポニカ文化は最終的には帝政ローマの帝国主義を文明の極限として完成されたがですけんど、黒潮経由の熱帯ジャポニカ文化の最終形態は、共和制ローマ・フェニキア女神崇拝の連邦制連合国家を極限としちょったということながですね。

それが日本海の越前秦氏を祖に持つ織田信長と黒潮の土佐秦氏を祖に持つ長宗我部元親の深い深いイデオロギー対立の裏側ながですね。

この問題は、日本という地政学的見地から見た根本的問題でもあり、帝政の本能(絶対王政)共和制の本能(一君万民)、この2つが象徴的に衝突したがが、本能寺の変ということになろうかと思います。


さらには、神道で用いられる柑橘類は明らかに南方系であり、魏志倭人伝に記された邪馬台国の植生も明らかに南方系のものながです。

また、五男三女八王子の筆頭・正勝吾勝勝速日天之忍穂耳『ウィキペディア(Wikipedia)』にも代表される勝男(カツオ『ウィキペディア(Wikipedia)』)は、黒潮を北上する回遊魚であり、日本神話が太平洋側からできたことは明らかであり、神社建築の鰹木『ウィキペディア(Wikipedia)』も黒潮文化圏で発生したがは容易に想像がつきます。しかも日本で唯一、天忍穂を冠した神社が香我美町にあるがですよ。八面大王伝説もそこやし。

鰹節は、御饌(みけ)『ウィキペディア(Wikipedia)』においても重要な位置を占めます。

これを総合して考えたら、天武天皇以降、あるいは菅原道真以降、何が封じられ何が力を持ち続けゆうかを想像することはシンヨイことやろうと思います。

沖縄と高知の宗教文化がつながったら、即、邪馬台国を意味するき、温帯ジャポニカ文化圏の人たちやアメリカ人の方たちはこじゃんと都合が悪いわけです。

米軍はどういたち日本の南伝ルートを切っちょかんといかんがです。石油においても文化においても。文明の起源とされるシュメールの文化をバビロニア・フェニキア経由で多くを輸入し文明の根幹に維持し続けた日本国に原爆を落としたとあっては、アメリカ自体が悪の枢軸国になるからです。

対英米開戦後の最初の作戦・マレー作戦『ウィキペディア(Wikipedia)』を成功させてマレーの虎と言わしめたがが大豊町出身の山下 奉文(やました ともゆき)さん『ウィキペディア(Wikipedia)』。南方系ルートを開くがはどういたち土佐、もしくは熊野しかない。

結局、高知は南国土佐やき、その気候から性格が沖縄とか南方系の人たちのオープンさ・明るさにシンクロするわけやき、どういたち京に最も近い南方系の急先鋒として攻撃したりされたりという立ち回りをせんといかんがです。損な役回りやけんど仕方がない。

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先日、土佐学協会主催の”元親と龍馬をつなぐモノ”という座談会に出席しましたが、その中で長宗我部の大河ドラマを実現するためには、明智光秀を中心にしたストーリーを展開する必要があるという話がでました。

これはほんまにそうで、街づくりカフェ・街カフェTVの藤島さんが展開しゆう”鳥なき島の蝙蝠”は、長宗我部元親と織田信長という戦国2大イデオローグの思想的対立の中で様々なストーリーが描かれています。

その2大イデオローグの橋渡しになったのが明智光秀であり、信長が四国征伐を決定した時点で、土岐氏・一条氏という藤原北家のテクノクラート群と対立することになったがです。

信長は藤原北家のヒエラルキーの中で下層の出身でしたから土岐氏・一条氏をアンシャンレジームに位置づけ、源平交替思想で吊るし上げる予定でしたが、結局、信長ひとりでは帝(みかど)を取り巻く秦氏から連綿と続く原始キリスト教集団のヒエラルキー結束を打ち破ることができませんでした。信長の最大の敵は藤原北家のヒエラルキーであり、その中心人物が本能寺の変時の関白であった一条内基です。

だからこそ信長は実力主義を採用しちょったわけです。日本における革命は、帝(みかど)・実力主義・源平交替思想、この3つでいつでも成し遂げられます。信長の失敗の本質は帝(みかど)を軽視したことで、武市半平太の失敗の本質は、源平交替思想を持ってなかったことです。龍馬は全部持っちょりました。


話を戻すと、一条内基のバックに長宗我部元親と明智光秀がおったがですね。2人の接点は秦氏の原始キリスト教であります。そして2人をつなぐ氏族は越前秦氏と土佐秦氏。信長も越前秦氏を先祖に持ちます。この2つをつなぐのは、草薙剣でもあります。土左大神が675年に天武天皇に神刀一口(草薙剣)を献上した時から、本能寺の変は始まっちょったというても過言ではありません。

信長がこの一派であったことは安土城を見ればわかります。今川義元を破る戦いの前に草薙剣を所蔵するとされる熱田神宮へ藤原信長という名をしたためています。

信長が革新的なキリスト教寄りの思想を持っちょったという一般的な捉え方は少し違うちょって、藤原北家自体が元々、そういうカラーであったと考えるのが自然でしょう。秀吉が関白に就任することによってその藤原北家のカラーを全て封印し、信長だけがキチガイじみた革新者というイメージを植えつけることによって、秀吉の源平交替作業は完了したがです。


信長は武田を破った後にこともあろうに今まで味方についちょってくれた藤原北家の近しい親戚たちも討ち取ることを決意したがですね。長宗我部元親は信親の名づけの時に、信長に日本の分割統治を持ちかけて連邦制の同盟を結んじょったわけですから、一方的にその同盟を破棄するがは明らかに帝国主義ですよね。四国征伐とはそういう事件です。

これが本能寺の変までの思想史的な流れであると思います。


”元親と龍馬をつなぐモノ”で配布された資料の中には、坂本世津夫さんの資料が含まれちょりましたが、坂本さんも美濃斉藤氏や美濃土岐氏にご興味があるらしく、市・学・官で本気で長宗我部を掘り起こす体制が整いつつあると思いました。

『本能寺の変 四二七年目の真実』を書かれた明智さんも安住さんのラジオに出演されたりして、より一層、追い風が吹きゆうような感じになってきちょります。この裏に歴女の存在があるというがやき、これは驚きですね。

歴史をつぶさに調べていったら、本能寺の変の裏には、秦氏(原始キリスト教)の天皇制という日本のロストワールドが見えてくるがやけんど、秀吉が天下統一を成し遂げて、完全なる情報統制を実施した前と後とでは全然違う日本がある、ということをひょっとしたら歴女の方たちは知っちゅうのかもしれませんね。

その秀吉の情報統制の中で原始キリスト教を彷彿させる色白・長身・超美形の長宗我部信親は暗殺されることになるがやけんど、長宗我部を復興させるということは土佐波多国にあった古代・秦王国を復興させるということでもあるがですね。

結局、これは大逆事件の捉え直しでもあり、天皇制に対する意識変革であり、皇国史観からの脱却でもあるがですね。

やき、長宗我部に関わることは日本を根底から揺るがす”日本を洗濯してしまう”事柄であるわけです。

それが結局、これから実現されるであろう道州制とも深く関わっちょって、長宗我部の問題は単なる歴史問題ではなくて、どちらかというと政治的な問題になってくるがやないかと思います。


冒頭で紹介した街づくりカフェ・街カフェTVの藤島さんが展開しゆう”鳥なき島の蝙蝠”の中でも、長宗我部元親(連邦制のイデオローグ)vs織田信長(帝国主義のイデオローグ)という話もでてきちょって、この問題は、古くは邪馬台国(連邦制)vsクナ国(帝国主義)、最近では自由民権運動(連邦制)vs国家神道(帝国主義)のように、日本史の中で常に出現する永遠のテーゼながですね。


この問題を積極的に検証することによって、昭和の戦争の失敗の本質も捉え直すことができ、日本人が再び未来を取り戻すためのきっかけでもあるがですね。

地上の生命は、土から生まれ土に還るわけやき、死につつある日本人が土佐に還ってくるがは必然であろうと思います。

あとは土佐人の知性だけにかかっちょります。土佐人にイデオロギーがなかったら面白くない。酒飲んで議論してイデオロギーを構築していったらひっとり変わっちゅうと思います。日本まるごと、、、

イデオロギーというもんは、突然あらわれるもんじゃなくて、密な人間関係、そこから生まれる議論、そしてそれをスムーズに進行させる潤滑油としての酒がないとだめで、これは全部、土佐の根本の文化ながですね。やき、土佐がすごいとか偉いとかいう問題ではなくて、こういうフランスのような文化が強烈にあるがは日本でも高知だけながやき、そっから日本が変わっていくというがは、足し算よりも簡単な合理的な方程式ながですね。

なんでも結果には原因があって、なんで高知県人のひとりあたりのアルコール消費量が全国一であるかというたら議論好きという原因があるがです。じゃあ、その議論好きが何を話しゆうかというたら社会の様々な問題ながです。これは古代ギリシャの民会『ウィキペディア(Wikipedia)』に起源があります。

女神崇拝・民会・直接民主制・哲学というキーワードを持つアテナイの文化は、土佐と同じです。アテナイから西洋哲学の根本を為すソクラテスやプラトンが輩出されていくのですが、土佐からもたくさんの哲学者が輩出されちょります。

哲学とは、すなわち”議論”であり、”酒”ながですね。



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手結の国道沿いに自転車道いうて看板があったき、こんなんあったっけと思うて調べてみたら大規模自転車道(国土交通省)があるがやね。

高知には大規模自転車道は2つしかなくて、八の字ネットワークという四国高速道路網を作るよりも、お遍路さんも通れる大規模自転車道を四国中に整備するほうが、四国の普遍的価値を高められるがやないかと思う。

自転車道を整備するためには、ただ単に予算をとればえいというもんでもなくて、そこを使用する人たちが存在せんといけません。いうたら、まず文化を醸成して、その後、行政がタイアップという形がないといかんがですね。

これが普通の民主主義社会のあり方ながやけんど、高知の場合は県庁職員が市民のマスクを被っていろんなことを肩代わりしゆうき、なかなか文化力というもんが醸成されてこん。

これは市民側にも責任があって、なんでもかんでも県職員に頼るという、それこそ”大殿様”的な心情を今でも抱いちょって、民主主義の精神というもんは一部の人にしか根付いてなくて、『日本で最も進んだ民主主義精神vs日本で最も遅れた権力志向』が共存するという奇妙な構図ができちょって、それが改革の前進を阻みゆうわけやね。


文化が醸成されて、そこに資本の移動があるということは、県庁を通さん自由な経済活動がないとダメながやけんど、高知の場合は、県のGDPに対する県の予算がかなりの割合になるき、高知県内の経済活動自体が県庁の介入を受け入れざるを得んというような状況に不可逆的になってくるがやと思う。



この問題を解決するための唯一の方法は、市民メディアの創出と様々な分野における文化力の醸成。

まだまだ道は遠いけんど、徐々にやっていけたらと思います。

高知はとにかく人口が少ないきね。



DSC05753.JPG舟戸界隈を巡ってきました。鹿児神社⇒船戸天神社⇒白太夫神社⇒天竺神社です。

しかし、この舟入川沿いは、歴史が埋もれちょりますね。

しかも舟入川沿いの北側の道は、車がほとんど通れんくらいの自転車専用道路にしてえいくらいの道幅で気持がえい。

追手筋から真っ直ぐに東に抜けたらフジグランがあって、橋を渡ってすぐ舟入川沿いのサイクリングロードに入ることができる。これは意外と埋もれた高知の資産やね。

そっから、物部川の山田堰まではもちろんのこと、アンパンミュージアム・物部村・べふ峡まで到達するサイクリングロードを整備したら結構、すごいことになるね。

舟入川沿いは歴史があることはもちろんのこと、野中兼山の土木偉業のことととか、河川干潟系人工用水路に豊かな生態系が育まれゆうという生物学的な要素を詰め込まれちゅう。

重層的な歴史・水を殺さない治水利水・豊かな河川干潟生態系という高知の本質が舟入川に凝縮されちゅうような気がします。

DSC05766.JPGDSC05767.JPG


ひまわり太郎さんもたまに取り上げる白太夫神社にも行っちょりました。

墓の看板が曲がっちょったき、直そうとしたら取れてしもうたちや。差込が浅すぎるで。差込直したけんどスコップがないと奥まで指しこめんき台風がきたら倒れるかもしれん。今度スコップを持っていかないかん。全体的に管理が行き届いてなくてほんまにもったいないことやね。

白太夫のことについては、大阪の綱敷天神社の度会春彦(白太夫)の項に詳しく書かれちょって、大津に葬られちゅう白太夫が伊勢渡会氏やった可能性も浮上してきちょります。

ここでどんな問題が浮上してきちゅうかというたら、垂加神道を開いた山崎闇斎『ウィキペディア(Wikipedia)』は、若い頃、土佐に留学しちょって野中兼山と交流があったき、度会春彦の墓を訪れちょった可能性があるということながです。舟入川は野中兼山が作ったし、山崎闇斎は五台山(吸江寺)におったし、垂加神道を開く人やき、近くの神社はある程度把握しちょったと思う。その中でなんで白太夫にこだわるかというたら、ぎゅうこうは漢字に直したら牛江になる。闇斎は吸江と潮江の不思議な関係に気付いちょったかもしれん。それをつなぐのが白太夫。

そしてそれは伊勢神道であり、渡会氏の豊受信仰。大津の北側は国衙であり岡豊。岡豊は豊受の土地。岡豊のコウは、鴻ノ森のコウ、神田(コウダ)のコウで神のこと。河内(カウチ・コウチ)のカウでもある。豊受=河内=高知の妄想も意外といけそう。


晩年、山崎闇斎は若い頃学んだ土佐南学と、伊勢神道と吉田神道をミックスさせて垂加神道を大成させていくがですけんど、この垂加神道が幕末の尊皇思想に多大な影響を与えていくがです。土佐は一藩勤王のイデオローグの武市半平太が出てくるがですけんど、この思想の源流って結局、菅原道真・高視、白太夫にまで遡ることができるがやないかと思うがです。


田村安興さんの著作記事で書きましたが、自由民権運動と土佐南学のイデオロギー的連鎖が指摘されちょりますけんど、これを10世紀にまで学術的に遡らせることができるがやないかと思いよります。

それぐらい日本史にとって重要な遺産ながですね。白太夫神社は。

お墓まで行けんぐらい荒れちょって、荒れちゅうというか竹とたけのこが異様にすごかったけんど、どういうことながやろうね。たけのこの皮が氾濫しちょって、猪でもきたが?と思うたちや。



DSC05781.JPG
天竺神社もすごくって、階段が長くて、城の遺構が残っちゅう。なんていうがやったっけ(左写真)。堀切でもない、切通しでもない。敵兵を迎え撃つやつ。

これを見るだけでも天竺氏の当時の息づかいが伝わってきます。4,50人おったらもういっぱいいっぱいなるがやないかと思うほどの小さい山城やけんど、小さいきこそ妙なリアリティがある。

高知城でレンタサイクル貸し出して、そこから1時間くらいでつくがやないろうか。道も簡単やし。メタボな方にはぴったりのプログラムやないろうかね。

歴史を知って、お腹も引っ込む。こんなえいことはない。ほんで、ひろめ市場でリバウンド。そんな本末転倒話も高知らしいと言えば高知らしい。


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岸田さんの作ったトロフィーめちゃくちゃかわいい!

長宗我部フェスのこともさることながら、この動画配信の雰囲気もかなりえい!

めちゃ手作りで、まさに梁山泊という感じやね(笑)


ちょっと動画を小さめにして埋め込みしてみました。


これはすごいことやと思いますよ~



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http://isnn.tumblr.com/post/445050404/3-21-7
【転載歓迎】3.21 「イラク戦争なんだったの !?」開戦から7年 検証シンポジウム

週末開催されます。告知協力大歓迎です。転送、転載、よろしくお願い致します。

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「イラク戦争なんだったの !?」
開戦から7年 検証シンポジウム

「大義のない戦争」「石油のための戦争」として、世界中で反対の声が上がったにも関わらず、2003年3月20日、強行されたイラク戦争。日本でも、盛り上がる戦争反対の世論を無視し、当時の小泉首相が戦争支持を表明しました。

 あれから7年、日本の検証を求める動きが全国各地で高まりつつあります。昨年、イギリスやオランダでイラク戦争の独立検証委員会が設置されたことを受け、私たちは同年11月、「イラク戦争なんだったの!?―イラク戦争の検証を求めるネットワーク」を立ち上げました。有志の国会議員も応え、すでに80人余りが「イラク戦争検証を行うべき」との議員署名に賛同。岡田外相も国会で、検証を行いたいとの意向を明らかにしました。

イラク戦争の検証は、日米同盟や憲法論議、国際社会の中での役割、そして私達の税金の使われ方など、今後の日本のあり方を問う上でも、重要ではないでしょうか。

このたび、私たちは、“日本での検証を実現するためには何が必要か?”“検証すべきことは何か?”“検証を経て、私たちは何を求めていくのか?”などを、各分野の専門家とともに議論するシンポ ジウムを開催いたします。

7年前のあの日、少しでも「おかしい」と感じた方々、昨年の政権交代で何かが変わるかも、と思った方々、ぜひ、本シンポジウムにご参加下さい。

【日時】2010年3月21日17時から19時半
【場所】明治大学リバティータワー1F・1012教室
http://www.meiji.ac.jp/koho/campus_guide/suruga/access.html
(千代田区神田駿河台1-1)

【主な内容予定】
・イラクの現状
(佐藤真紀/JIM-NET、高遠菜穂子/イラク支援ボランティア)
・国際法の観点からのイラク戦争の問題点 
(東澤靖/日弁連国際人権問題委員会委員長、HRN理事)
・イラク人道復興支援の問題点
(高橋清貴/日本国際ボランティアセンター)
・イギリスとオランダのイラク戦争検証委員会について 
(スピーカー交渉中)
・自衛隊派遣の問題点
(川口創/イラク自衛隊派兵差止訴訟弁護団)
*敬称略

【問合せ&詳細】
「イラク戦争の検証を求めるネットワーク」
HP:http://isnn.tumblr.com
メール:regretiraqwar☆gmail.com(☆は半角@に換えてください)
電話連絡先:090-9328-9861(志葉)
土岐山(やまとの部屋)

高知県日高村に土岐城がありました。土岐氏は戦国土佐の歴史に密接に関わりますが、おおまかに言いまして、鎌倉・室町期を通して北関東の藤原秀郷流、新田氏系、甲斐武田氏、美濃土岐氏に関わる人たちが土佐にたくさん流れてきています。

この流れは単に、中央政界から地頭のような立場で流れ着いた、南北朝の動乱でどさくさにまぎれてやってきた、というようなもんやなくて、黒潮海人族の文化がまずベースとしてあって、その糸をたぐって皆、あっちこっち移動しよったがやないかと思います。

源氏が海人族の末裔やったというがは最近、オカルトの方面でもまことしやかにささやかれちょって、熱海の海底に沈んじゅう港湾は鎌倉幕府が使用しよったというところまで研究が進んできゆうらしい。それぐらい鎌倉幕府の実体は、まだ明らかじゃないということ。

源頼朝の父・源義朝『ウィキペディア(Wikipedia)』がなんで愛知県の知多半島の野間に埋葬されちゅうかを考えたら源氏と黒潮は、はっきりとつながってくる。野間は東日本と西日本をつなぐ廻船で栄えた街。

そこで落ち武者狩りに会うがは、なんらかの深いメタファーがある。源希義は、頼朝挙兵時に土佐で討伐された。

源為朝『ウィキペディア(Wikipedia)』の琉球王家始祖説もおもろい。ここにも源氏と黒潮というメタファーが横たわっちゅう。


土岐氏は清和源氏の流れになるらしいけんど、その起源はかなり古く、魏志倭人伝に出てくる都支(とき)国の末裔ではないかと思う。

伊都国は、北九州から高知県南西部(伊豆田)⇒高知県中央部(伊都多)へと後退し、伊豆国まで東遷している。これはもろ加茂氏の東遷ルートであり、迦毛大御神がなんで力を失っていったのかは、出雲神話が力を持ち始めたことと密接な関わりがある。


土岐とは、土を分けるクナト(岐)の大神という意味であり、三河一之宮・砥鹿神社の砥鹿ともかなり近い意味を持つ。

黒潮海人族にとって内湾を持つ平野こそ都にふさわしく、土佐湾・伊勢湾・相模湾しか彼らが拠点とできる場所はない。

関東と土佐のつながり、美濃と土佐のつながりは、この文脈でみていくとかなりおもしろい。

一条兼良は、斎藤妙椿の招きで美濃におもむき、文明5年(1473年)には『ふぢ河の記』を執筆していますし、その長子・一条教房は土佐国幡多荘に下向している。これが土佐一条氏の始まり。けんど土佐国幡多荘からは聖徳太子の懐刀である七星剣が出ちゅう。幡多荘は皇室の単なる荘園ではない。皇室を作った秦氏・賀茂氏の元々の出元、『随書』に記された秦王国は、まさにこの幡多荘。

幡多荘にある延喜式内社・高知坐神社の高知はコウチやなくてタカチ。高知は天皇の隠語で、高い所からしろしめすという意味。万葉集にも出てくる。これがハツクニシラスという初代天皇をあらわす称号につながっていったがは想像にかたくない。

一条氏は藤原北家であり、そこに日本海海人族(海部氏・越前秦氏)も入ってくる。織田信長は越前秦氏のキリシタンやし、光秀もおそらく秦氏でキリシタン。そして長宗我部も波多国秦氏のキリシタン。

美濃斉藤氏・美濃土岐氏・信長・光秀は藤原北家一条氏でつながっちょって、『本能寺の変』時の関白は一条内基。やき、これは藤原北家キリシタン秦氏の内紛ということになる。


クナト(岐)の大神は、日本古来のサエの神と習合したサルタヒコでもあり、サルタヒコを奉祀しよったがは秦氏。

とにかく土岐氏は古い氏族であり、皇室と深い関係にあるがは戦国期に始まったことやなくて、弥生時代後期にまで遡ることができると思う。

おそらく都支国は、香川県丸亀市の土器川付近やと思う。



土岐氏に関しては、本能寺の変 「明智憲三郎的世界 天下布文!」の明智さんが詳しい。


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