《日本語のルーツ「土佐弁」》 ★感嘆詞⇒げに まっこと お~の たま~ あっぽろけ しもうた ばっさり やまった なんちゃあ いうたち ★代名詞⇒あて あし おまん おんしゃ ★名詞⇒いられ どくれ もがり いちがい おらんク おまんク ひとんク あしんク あいちゃぁんク ちゃりす ほげす てんくろう くそじんま ごくどー ひいとい ようだい ばいあい まちまい いこじ いごっそう はちきん わかいし わりことし ★副詞⇒しょう こじゃんと どだい たまるか たいちゃ びっしり ぎっちり ぼったり ばっつり ぼっちり ちっくと しゃっち ざんじ しゅっと めっそ ひっしかっぱ ひがち ★形容詞⇒へごな のかな へすこい ひやい ぬくい みぞい しわい いそしい えずい やりこい ちんな たっすい したらこい むつこい たいそい めんどい あやかしい むつい またい かあくろしい ばばひい およけない とろこい ★動詞⇒ひせくる びちくる ぞぶる まぎる ちゃがまる たれもつる たごる ねぶる りぐる かやる のうがわるい ほたえる そばえる たつくる うまえる えぜる ロイつく えつくる さらばえる ほりこかす はりまわす めった いぬる ぞ~くそわるい しのべる くるめる ばぶれる いこる ゾンゾンする しゅんじゅう こたう ★語尾⇒ちゅう にゃあ ちや ぜよ じゃいか やき じゃき ★活用例:こじゃんと ぞ~くそわるい(私は非常に気分が悪い)、ちっくと待ちよってや!今からざんじいんでしゅっと来るき(ちょっと待っててね、今からすぐに家に帰って、それからまた来るから)
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摂家(せっけ)『ウィキペディア(Wikipedia)』

上の項目にありますが、鎌倉時代以降家格の頂点に立った5家のことで、土佐一条家もこれに当たります。

織田信長は、この摂家になろうと試みますが、本能寺の変で討伐されてしまい、豊臣秀吉は1585年(天正13年)に近衛前久の猶子となり、藤原朝臣秀吉(近衛秀吉)として関白就任を果たしました。

しかし、その子・秀次以降は再び五摂家が摂関の座を独占するようになり、戦前までこの流れは続きます。→将来の皇后たるべき皇室嫡流の正室(すなわち皇太子妃)となるべき者は、皇族もしくは旧摂家(五摂家)の女子に限るという不文律が存在したようです。


大津御所『ウィキペディア(Wikipedia)』である一条 内政(いちじょう ただまさ)「土佐一条氏6代目当主1557年~1580年)は元親に養育されたわけですけれども、この一条内政は、一条 内基(いちじょう うちもと)『ウィキペディア(Wikipedia)』に、名前(内の字)を与えてもろうたがです。

一条 内基(1548年~1611年)は、本能寺の変の時の関白。

摂政『ウィキペディア(Wikipedia)』は、幼少の天皇の場合に置く職であり、関白『ウィキペディア(Wikipedia)』は、語源は天皇の言葉に対し、関(あずか)り白(もう)すことから来ているように、「天皇の代理人」なわけです。

その天皇の代理人である関白が、本能寺の変の9年前である1573年~7年前の1575年まで土佐に逗留し、大津御所の元服時に名前を与えちゅうわけです。(一条内政=16歳くらい・一条内基=26歳くらい・長宗我部元親=35歳くらい)

大津御所は元親(1539年~1599年)に養育されました。上に大津御所元服時のだいたいの年齢を書きましたが、おそらく元親が内基土佐逗留時に内政への偏諱を積極的に働きかけよったがやないかと思います。

ちなみに長宗我部元親が織田信長に中島可之助を派遣して信親の『信』をもろうてきて(1575年10月)、信長と不可侵条約を結んだ時は、一条内基は土佐におりました(もしくは去った直後)。

つまり元親は35歳頃に摂関家になろうとしよったわけであり、織田信長よりもかなり早い段階で戦国のならわしを創った可能性すらあります。

ちょうどその頃、京都では信長が京都を制圧し足利義昭の追討を行ったわけですき、幕府が瓦解して信長による大政奉還が成立しました。

1575年に内基は京都に帰って内大臣に就任、1576年には右大臣、1577年には左大臣へと昇進しちょります。同年1577年には織田信長が内基の直後に右大臣『ウィキペディア(Wikipedia)』に就任しています。

しかし、信長の最高位は右大臣であったらしく、正親町天皇が抵抗して信長の昇進をさせんかったき、信長は摂関家になるために、かねてより親密であった誠仁親王を即位させようとしましたが結局、本能寺の変で立ち消えになりました。


やき、信長と一条内基は宮廷内では、こじゃんとライバルで、内基の裏には元親が隠れちゅうわけやき、本能寺の変は土佐一条家と藤原信長を名乗る織田信長の藤原北家同士の家督相続争いでもあったわけです。(信長のルーツは越前秦氏と越前藤原氏)

その争いに、はやいとこ食い込んで、戦国の摂家になろうとした元親は非常に政治的な天才であったとも言えると思います。


信長はイクサには強かったけれども宮廷政治に失敗して討伐されるわけですけれども、秀吉は両方に強く、最終的に関白に就任します。ここらへんの政治的手腕(宮廷政治家を黙らせる)を元親は一目置いて、秀吉の配下に入ったがないかとも思います。土佐一国に減封された後でも、全国に散らばる五摂家の力を後ろ盾にしたら、2度目の本能寺を起こすことは可能やったはずですから。織田信長は少なくとも藤原氏の傍流やき、血統は悪くはないけんど秀吉は百姓の出で関白就任なんかとんでもない、当時はそう思われちょったと思います。


おそらく秀吉は、バテレン追放令を含めた政治的画策で、秦氏や藤原氏などの天皇家に近い古代氏族の封じ込めに成功したがやないかと思います。

この政治的画策は徳川家康にも引き継がれ、土佐の政治的地位はどん底にまで降下させられるわけです。その鬱憤が幕末に爆発するがですけんど、未だに幕末や自由民権運動の深いところの正確な探求はされてないき、これからですね。

[2407] 介良の旧道が広がりよります - 2009/11/17(Tue)

[2406] 上岡の山で妄想が暴走 - 2009/11/16(Mon)


ひまわり太郎さんが、上岡山の八幡宮が立つ山を古墳じゃないろうか、と書かれちゅけんど、妄想などではなく、ほぼ古墳で間違いないと思います。


自分も全国の古墳や神社を巡っていますが、小高い山の上に鳥居が立てられちゅう神社は、古墳を守るために建てられちゅうと考えてえいと思います。


高天原山山頂からも古墳時代の遺物が出てきちょりますが、あの山頂にある巨石群は間違いなくイワクラであり、古代祭祀の場所です。そこで日・月・星を祀る伝統があるわけですから王墓であることは間違いがないと思います。


また北に行きました延喜式内社小野神社も小高い山の上が本殿になっています。間違いなく小野系の王墓、つまり古墳時代の倭国を統一していた天皇である可能性が高いです。


そして、南国の船岡山、吾岡山。これも古墳でしょう。罰当たりなことにこれらの山の土を削り取った輩がいます。


そして、もちろん斉明天皇没地とされるウグルス山も古墳であり、王墓です。


十市の新宮神社もそうでしょうし、大津の慶児神社なんかもそうやと思います。


その中で一番大きいがが高天ヶ原古墳群です。


高知に古墳が少ないというがは、高知の歴史家に古墳に対する理解度が少なかったからで、古墳への理解度が上がれば、高知からも巨大な前方後円墳が出るのは間違いがありません。


この国の古代史学は、九州と畿内、そして最近では出雲地方の地域おこしのための捏造の歴史でもあるので、そういうものに惑わされずしっかりと自分の眼で見て、自分の足で確認したいものです。


関東のほうでも、三角縁神獣鏡が出土した古墳であるにも関わらず、ここ10年~20年の間に狂気的な企業によって盛り土に使われたりしゆうぐらいですき、無法地帯なわけです。


畿内になぜあれほどの古墳が残っちゅうかというたら、古墳を残すことが観光につながってきたわけですから、それができたわけです。


しかし、古墳は発見されてないものの方が多く、古代寺院の分布を考えても、畿内に古墳時代から王都があったなどということは100%ありえない話です。


まずは私たちひとりひとりから、狂気の戦後歴史学者の世迷言を鵜呑みにせず、自分で調査し、自分で結論を出していくことが必要でしょう。


万世一系に基づく天皇論は排して、各地域の大王(おうきみ)から天帝が交替で選出されていたという本来の天皇制のありかたに戻さないといけないでしょう。

多民族国家大和

古代史に関することは上記ブログに書きはじめました。

ユーラシアの様々な宗教文化を吸収・融合して縄文世界と結合させた初期大和王権が土佐で興ったという設定です。

「ネットがあれば政治家いらない」 東浩紀「SNS直接民主制」提案(J-CASTニュース)

自分も2年以上前から、下記記事などで直接民主制論を書いてきたけんど、やっと若い人たちの間でも政治思想に踏み込む人たちができてきて社会が新しい方向に転換する兆しが見えてきたようです。

前から言いゆうように、自民党でも民主党でもない第三極の新保守(ネオコン)の人たちですね。この流れを土人党に取り込みたいがやけんどねっ。


知の殿堂 ~ うんとモガリたい人たち向け ~
協働自治型社会とは
なめたらいかんぜよの高知
直接民主制がようない?


Webを介した直接民主制は、年寄りには理解できんらしいですね。

そもそも間接民主制とは、市民の代理権を得た代議士が議会で発言するがやけんど、議会が予め決められた質問と予め決められた回答で運営されゆう現在において、日本の民主主義は腐った形式民主主義と言わざるを得んやろうと思います。

既に議会には法の精神とか民主主義の精神とか、そんなものを尊ぶ人たちは少なくて、自らの地位と名誉に対する欲望を議会に参加することで果たすという世にもおぞましい構図ができあがってしもうちゅうがですね。

やき代議士になった人たちは、代議士生命をかけた発言はせんし、なんとなくうまくとりつくろう政治的手法しか選択できんなるがです。

もし仮に真の民主主義精神が宿る人たちが日本に存在するとすれば、真っ先にすることは議会に入って議会を変革するがではなく、議会そのものをぶっこわして新たな民主的プロセスを創造するやろうと思います。

こういう意味において、直接民主制に言及する若者が出てくるという現象は、日本が本質的に再生していくという明るい兆しであると思います。


最近問題になっちゅう公職選挙法の問題とかオバマ大統領が当選した裏にあったWeb選挙活動とか、こういう流れとWebの本質を考えたら、政治における民主的プロセスがWeb直接民主制に移行してくるがは時間の問題なわけです。

あとは、それがどこの国のどこの地域から、どのように出てくるかが一番の問題で、それを一番先にやった地域が自由・平等・博愛の女神の祝福を受けるわけながですけんど、どうでしょう、現在はアメリカが構造的には一歩リードしちゅうと言うてえいと思います。

なんでかって言うたら、これは一部の人間が勝手にやったら成功するというもんではなくて、このシステムを支える膨大な政治勢力が必要なわけで、オバマ大統領選でつながった若い人たちの政治ネットワークは日本には存在せんからです。しかし、日本人は突然ひとつにまとまって目的を達成するためにがむしゃらになる、という特性を持っちゅうき、まだまだ先はわからんという状況です。


あと、Web直接民主制の意味を理解できん人、あるいはWeb環境が整ってない人が、その民主的プロセスの中から閉め出されるという新たな問題も孕んじゅうわけです。


この問題を乗り越えるためには、今まで以上の民主主義的精神が必要なわけであり、その時必要になってくるがが結局、古代ヤマトの合議主義、すなわち土佐邪馬台国の一君万民自由思想ということになるがですね。

大文字の精神とか和の原理主義は土佐で完成されて畿内に持ち込まれたわけですき、今回の政治プロセス革命は、正しい古代史の発掘の旅でもあるがです。

ここらへんのところは未だ光を見ずの状態やき、これからのことになると思います。


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昨日、ある方と話をした時に、気になっちょったことがあるのでまとめちょきたいと思います。

四国、特に高知の古代においてかなり重要な要素になるがが、川なんですけれども、古代、神河(みわがわ)と呼ばれた仁淀川『ウィキペディア(Wikipedia)』の水源はウィキペディアにも記載されちゅう通り、石鎚山になります。でも古代土佐人はそのすぐ隣にある瓶ヶ森を水源とみなしちょったがやないかと感じます。平安時代以前は石鎚山より瓶ヶ森の行場のほうが栄えちょったらしいですき。

ほんで吉野川『ウィキペディア(Wikipedia)』の水源が瓶ヶ森で、古代、鏡川と呼ばれた物部川『ウィキペディア(Wikipedia)』の水源は剣山系白髪山になります。


つまり、四国の2大山である石鎚山系と剣山系の水が、それぞれ(現)鏡川、(現)国分川と合流し、浦戸湾に注ぎ込みよったわけです。

その構造を以って土佐は古代、巨大風水都市の名を欲しいままにしてきたわけです。

風水の根幹の思想に「蔵風聚水」(ぞうふうじゅすい)という捉え方があります。これは風をたく(蔵)わえ、水を集(聚)めるという意味ですが、四国2大山である石鎚山と剣山から水を集める浦戸湾を擁す高知市中心部は蔵風聚水都市と考えて良いと思います。

しかも、土佐一之宮土佐神社の古代主祭神であると推測される『しなね様』は風の女神です。手結に風待ちの文化があるように、浦戸湾にも古代、巨大な風待ち、すなわち『風』を神聖視した文化があったがは確実でしょう。

この風水都市構造に、北は七ツ淵、南は竜王宮、東は介良三山や船岡山、西はライオン岩や鴻ノ森、これら四神が絶妙に配置され、そのど真ん中に神功皇后伝説の玉島があるがは、決して偶然やなくて、むしろ神話が自分らあ土佐人の目の前で未だに動きゆうとも言うてえいような状態です。


これらの構造に浦戸湾の子宮的構造や孕みのジャンなんかを加えていくと、ものすごく深いレベルで縄文の信仰と古代中国やオリエントの信仰が土佐で融合した痕跡を幾つも発見できるがです。


四国三郎吉野川は阿波海に注いで紀国の吉野川と比翼連理を為すわけですが、この構造を認識するだけで、日本の文明が四国で発祥し畿内へ移動していったと考えることのほうが自然やと思います。



思い込みと偏見を取り除いたら色んなもんが見えてきます。



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この前の続きで、食糧自給率100%への具体的な道のりですが、けんちゃんや藤島さんに指摘してもらったように、やり方はひとつではないような気がしてきました。

けんちゃんが言われる減反政策からの脱却と保存食の拡充は必須やと思います。そもそも減反政策なんかは55年体制が農民票からゼネコン票へと強制的に移管した脅威の悪策やし、そのことによって自動車産業を始めとする輸出産業が日本の国際競争力を牽引してきたがは良かったものの、その負の面は弱者を食いつぶす土建中心の重厚長大な国家思想に力を与え続けてきました。

(ソニーの創始者のひとりである井深大氏が晩年、[気の研究]をやりよったように(キチガイ扱いされて死んでいった)、日本は90年代初頭にはそういう方向へ舵を切らないかんかったわけです。それを『失われた10年』とかいうてゼネコン延命と新自由主義拡大路線に突っ走った90年代00年代の政治家・企業経営者の罪は重い)


これが時代の要請に応じ、崩壊してきたわけやき、減反政策自体も見直す必要があると思います。現在の米農家は、ほとんどがやっていけん。輸入米との競争にさらされたら国内の人件費や燃料費ではとてもじゃないけんど、太刀打ちできん。そのくせ農協が卸団地にふとい建物を建てるがは、一体どういう神経をしちゅうがか?

日本の農業は、ウルグアイ・ラウンドやドーハ・ラウンドのラウンド協議の中で自動車産業の人身御供にされてきたわけやけんど、民主党が円高容認政策と内需拡大宣言を出したように、これからそっちの保護主義的方向へとゆり戻しがあると思います。

そういう時代状況の中での、【高知県食糧自給率100%への道】ながやけんど


①減反政策からの脱却と保存食の拡充(けんちゃん)

②晴耕雨Web(藤島さん)

③高知県内完結サプライチェーン(自分)


をとりあえず目下のところ具体的な指針にしたい。

藤島さんが言われゆう②の晴耕雨Webは、自給率データの抽出方法に関係なく、そういう文化が根付いたら間違いなく高知県の食糧自給率は上がっていくき、検討の余地なくそういう文化的素地を高知県は進化させていく必要があると思う。とりあえず自分の中でも半農半〇的思想は大好きで、この思想は政府の減反政策を超越するがです。

米や野菜が売れいで農家はやっていけんき、自給率も下がってきゆう。やき、大規模に売るという意識は捨てて、自分で食べる分ばあ、あるいは知り合いにやったり、売ったりするばあ、作って生活する。でもそれだけではやっていけんき、Webを組み込む。それが理想やろう。実は自分がやりたいライフスタイルもそんなが。自分の場合は何年もかけてそれを目指してきたき、Webのほうは完璧やき、あとは畑を探す段階。


それと③の高知県内完結サプライチェーンやけんど、これも著しく高知県の食糧自給率をあげると思う。これは県内の外食産業で使用される食材を全て県内の食材でまかなうとする考え方。

個人での自給自足より、高知県人は外食が好きやき、そこの自給率を上げたらえいという話。今でもそういう文化が結構あって、喫茶なんかでも自分の畑でとれたもんを出しゆうところも多い。そういう文化をより一層、強固なもんにして高知県内の外食産業から自給自足を実現してもらうということ。これは誰も損をせん。食材農家は助かるし、このブランドが立ち上がってきたら外食産業も人が来るやろうし、そこで食べる人たちも健康になる。

ただひとつ問題は、県内で安定的に食材を供給し続けられるかということと、外食産業が利潤を上げるほどの仕入れ値で県内の野菜を確保できるかという問題がある。

ここで何が必要になってくるかというたら、県内完結サプライチェーンというがが、ある程度認知度が高まり、全国規模で人気にならんといかんがよね。そうすることによって価値があがって値段も少し上げられるき、皆がなんとかやっていけるということになる。


たぶん他にも色々とできると思う。とにかくこれは経済構造転換と文化構造の転換やき非常に時間と手間がかかる。ただ、その苦しい仕事を最初にやった県が勝ち馬に乗れるというがは間違いがないと思う。


やるかやらんかと言われたら、やるしかないやろうと思う。

高知県に他に道はないし。


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食料自給率100%にするためには、具体的に何をしたらえいがか?というテーゼ(命題)ながですけんど、まずショクリョウには、食料と食糧がありまして、ここの違いとかもありますし、農水省が出しちゅう指標と同じ考え方(カロリーベース)の指標で、100%を目指すがか、それとも全く異なるベースで100%という数値を目指すがか、考えんといかんと思います。

今、土佐経済同友会が県内各地で講演会をやられてますが、これらの講演会を通して、自給率に関心をもってもらうというのが最も正攻法と言えると思います。

そして、自分たち民間人も言葉の意味と自給率を100%にする意義を理解せんといかんと思います。


しかし、その前に多くの人の意識の中には、『なんで高知県だっけがそんなことせんといかんが~』とか『そんなもん国がやったらえいことやないが~』とか、まずなぜそれを目指すのかがわからん方たちがいます。


なぜ食糧自給率100%を目指すかというたら、高知は独自の政治・経済圏を築かんかったら生活環境が悪化し続けるがです。

ここの根本的認識に到達できてなかったら、食糧自給率100%の意味と意義が理解できんがです。やき、この問題は意識改革の問題でもあって、土佐は独立するんですよ、と言い続けていかないかんと言うことです。


ほとんどの場合、土佐独立の時代的意味を理解できる人はそう多くはないと思います。

幕藩体制が終わって日本国ができた時に、国家というもんを意識できた人間は、龍馬や兆民、勝海舟など、ごく一部の限られた人たちだけでした。

それで彼らが何をしたかというたら、民衆にその意味をわからせようとしたがやなくて、そうなる・そうなるとほんまにしわく言い続けたがです。維新政府は国家神道で上からの国家意識を醸成しようとし、土佐人は下からの国会開設運動や近代的自由啓蒙運動などで国家意識を醸成しようとしました。

このような運動も成果があったと思いますが、最も国家意識の高揚に成果を上げたがは皮肉にも、戦争やったでしょう。土佐人はこの時も邪馬台国時代と同じ過ちを繰り返しています。つまり、当時、邪馬台国は魏などと国際貿易体制を敷く文化的連合国家でしたが、戦争国家主義が非常に強いクナ国に最終的に占領されてしまうがです。

土佐人の悪い癖は、非常に精緻な哲学を組成するがはえいがですけんど、それを放逐しもうて、それを管理・統制せんことです。近代的自由というもんが明治初期に存在したにも関わらず、昭和の時代に発生した「アジアは日本が統治すべきである」という日本盟主論などは、土佐の自由思想が中央に昇り、変質化し、国を誤らせた好例と言えます。

ほとんどの場合、土佐の思想は東京に行くと全く違う形で解釈されます。逆もまた真なりで東京の考え方は、高知にやってくると全く違う形で解釈されてます。脳の構造が違うがです。これがわかれば如何に中央政府と同じ政策を選択することが馬鹿らしいのかがわかります。


話を元に戻しますと
明治維新前年のええじゃないか乱舞をみてもわかるように、日本人は西洋人のようにフィロソフィーで行動するがやなくて雰囲気で、つまりは祭りで行動します。

やき、食糧自給率100%も、よさこい乱舞にする必要があるでしょう。根本的な哲学の組成は一部の人間がやりますので、後は勢いで変わっていく。こんな感じでえいがやないでしょうか?


ただ、その一部の人間というのが、ある程度おらんとだめで、その中で様々な議論と融合がなされていかんといけません。


食糧自給率100%というのも、かなりいい加減な指標で、本気でやろうと思うたら、調味料とか水なんかも全部高知県内でまかなわんといかんがですね。それはかなり不可能に近く、ほとんどの場合、概念的な意味において(食糧の物流がほぼ高知県内で完結・循環している)のものになるとは思います。


しかし、その地点へ到達することでさえも、非常に哲学的なワークグループが必要になりますので、県庁に頼っちょったら一生不可能ということになるでしょう。


それぞれの項目・目標について分科学会みたいなものを開いて知を蓄積し実行に移していかんといかんがです。

それが{ゆうあい工房}!?

是非、そういうものを酒の肴にしながら楽しく変革できていけばおもしろいと思います。

コムツイ話だけやなくて、たまに歌や踊りを交えながら、よさこいやおきゃく文化という土佐の融合の文化を満喫し、発信していくことも必要やと思います。


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今、民主党の予算見直しの影で、高知県への交付金が減ってきちゅうわけながやけんど、実はこれは一時的なもんやなくて、恒久的なもんやと覚悟しちょかんといかんと思う。


ほんでどうせないかんかというたら、具体的に話しますけんど、県庁職員が今やりゆう仕事を引き継いでひとりひとりが自立していくというのがえいと思います。


高知県の財政支出でかなりの比率を占めるがが人件費。この人件費を削って同じ行政サービスを維持していくためには、県庁職員が県庁を辞めて今、やりゆう仕事をビジネスとして成功させていくこと。

財政的には高知県は小さな政府にする必要がある。


例えば、県の移住者支援なんかは、民間へ下野しても充分にビジネスとして成立する分野やき、そこらへんのところも{ゆうあい工房}がインキュベータ(孵化装置)としての役割を果たせそう、という感じでしょうか。


{ゆうあい工房}が知の殿堂として、哲学的思考を提供し、実際の高知での経済活動については経済同友会と接続して、{ゆうあい工房}に集まったリアルソーシャルネットワークを介して人脈を広げていったら、ある程度ビジネスは成功すると思います。


ビジネスとして大成功を修めんでも、幸福とは何か?についての答えが出たら人生にも大きなコペルニクス的転回がもたらされるがやないかと思います。


人間という生き物は、人間関係が充実しちょったらお金をほとんど使わんでもえい生き物です。都市経済の発達は人間関係の希薄さと密接に関わっちょって、人間関係が充実してない人ほど、物を買ってそれを果たそうとし、地位や名誉を人一倍、得ようとします。



土佐経済同友会が提唱する食・エネルギーの完全自給による高知県経済規模のダウンサイジング化は、上記の都市経済とは対極にあって、人間関係が経済規模の代わりに選択される政治・経済・文化構造ですき、高知県経済が人間関係によって健全化していくというがは、なんとなく理解できると思います。


そこに、おきゃく文化が付随してきますき、大都市に向かって発信すべきは、明らかに経済規模ではなく、経済構造ながですね。


やき、{ゆうあい工房}でのインキュベータが成功するとはいうても、それは経済規模的成功を意味するがやなくて、経済構造的成功を意味するがやと思います。それが何かと言えばCSR、つまりは社会的責任を負った社会起業であり、土佐南学を基点とする経済思想革命、もしくは回帰ながですね。


そういう意味でいうと、{ゆうあい工房}は梁山泊ということになると思います。


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