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《日本語のルーツ「土佐弁」》 ★感嘆詞⇒げに まっこと お~の たま~ あっぽろけ しもうた ばっさり やまった なんちゃあ いうたち ★代名詞⇒あて あし おまん おんしゃ ★名詞⇒いられ どくれ もがり いちがい おらんク おまんク ひとんク あしんク あいちゃぁんク ちゃりす ほげす てんくろう くそじんま ごくどー ひいとい ようだい ばいあい まちまい いこじ いごっそう はちきん わかいし わりことし ★副詞⇒しょう こじゃんと どだい たまるか たいちゃ びっしり ぎっちり ぼったり ばっつり ぼっちり ちっくと しゃっち ざんじ しゅっと めっそ ひっしかっぱ ひがち さいさい ★形容詞⇒へごな のかな へすこい ひやい ぬくい みぞい しわい いそしい えずい やりこい ちんな たっすい したらこい むつこい たいそい めんどい あやかしい むつい またい かあくろしい ばばひい およけない とろこい ほうやくな しんよい ★動詞⇒ひせくる びちくる ぞぶる まぎる ちゃがまる たれもつる たごる ねぶる りぐる かやる のうがわるい ほたえる そばえる たつくる うまえる えぜる ロイつく えつくる さらばえる ほりこかす はりまわす めった いぬる ぞ~くそわるい しのべる くるめる ばぶれる いこる ゾンゾンする しゅんじゅう こたう ★語尾⇒ちゅう にゃあ ちや ぜよ じゃいか やき じゃき ★活用例:こじゃんと ぞ~くそわるい(私は非常に気分が悪い) ・ちっくと待ちよってや!今からざんじいんでしゅっと来るき(ちょっと待っててね、今からすぐに家に帰って、それからまた来るから) ・さいさい来てや!(暇があったら酒の肴でも持って、いつでも飲みに来てね)
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気になるので7-8世紀あたりを少しまとめてみます。


660年頃 ヒエ寺/秦泉寺/神通寺大伽藍を形成 土佐条里制 既に完成

661年 宝皇女(たからのひめみこ)「斉明天皇」 土佐朝倉で没(陵はウクルス山)
     唐/新羅の暗殺計画成功→宝皇女は大和屈指の女戦略家
      『土佐物語』に当時の様子は克明に記されている。

663年 白村江の戦いで高宗(こうそう)の唐に敗北 唐/新羅人が大挙として畿内に流入
      ※高宗※は皇帝ではなく天皇の称号を使用したことでも知られている。

673年 天武天皇即位
      天武天皇は大王という呼称を天皇に改めるよう命じた
  
      即位の礼時 北四国 翠波峰(水の神)-豊受山(風の神)を奉祭
      その後    広瀬(水の神)-龍田(風の神)を創建し、異常なスピードで奉祭    
      天武天皇が恐れた神風 大和路(※やまじ※)
      やまじが吹いてくると考えられていた南の方角に風神シナネを配する土佐高賀茂大社

      土佐高賀茂大社の主祭神アジスキタカヒコネの別名は
      迦毛大御神(かものおおみかみ)
      古事記内で大御神がつくのは迦毛大御神と天照大御神のみ
      本来は、天照大御神→太陽神男神 迦毛大御神→風水月神女神
      迦毛は鳥、風によって飛ぶ。


675年 風神土佐大神(土佐高賀茂大社) 神刀一口 天武天皇に献上

同年   風神龍田大社創建

678年 上賀茂神社創建

686年 秦石勝が天武天皇のご病気(神刀のたたり)平癒を祈願するため
      土佐高賀茂大社に出戻り訪問

724年 聖武天皇即位の年に天皇勅願で行基が五台山(高知市)を開基(神亀元年)

727年 光明子 基王を生む

728年 基王が亡くなり 長屋王の変が起きる(骨は土佐へ流される)

729年 光明子 皇后へ立后(藤原氏では初の子女/聖武天皇の妻)

764年 藤原仲麻呂(恵美押勝)と淳仁天皇(淡路廃帝)が
      考謙天皇/道教勢力と対立→恵美押勝の乱へと続く
      塩焼王(-10月21日)を今帝として擁立
 
      高賀茂田守が円興とともに恵美押勝の乱の混乱に乗じて
      土佐高賀茂大社から一言主を連行
      葛城一言主神社創建   

      ※円興※は道教の弟子。高賀茂田守の兄。
      道教が円興を使って高鴨神を土佐高賀茂大社から誘拐したのは明白。
      奈良葛城が一言主の本地ならば675年の土佐大神による神刀献上時に
      高鴨神の移行が行われるべき。そうでなければ天武天皇が配流先の神から
      皇室守護の三種の神器である神刀を受け取ったことになります。
      どう考えてもありえない話です。

      ましてや神刀献上直後に京都上賀茂神社が
      創建されているのは明らかな因果関係がある。

      このすべての問題をクリアするひとつの事実は
      一言主(高鴨神)は土佐土着の神であるということ。

      土佐は淳仁天皇派だった。
      764年に誘拐事件を実行するということは恵美押勝と淳仁天皇のバックに
      土佐大神が存在していたことを道教は、はっきりと認識していた。

      これは本能寺の変の時に、織田信長が関白・一条内基のバックに長宗我部元親が
      存在することを認識していた構図と同じ。
      本能寺の変のルーツは高鴨神連行事件にまで遡る。


769年 塩焼王の息子 志計志麻呂が皇位奪還を計画したとして土佐配流
      高知県須崎市に供養塔

782年 氷上川継(志計志麻呂の弟/志計志麻呂本人とする説もある)の乱
      これに連座して藤原 魚名が大宰府へ左遷
      息子の藤原鷲取が土佐に左遷


(前王朝/土佐出雲邪馬台国)は外、福(風神)は内>戦略成功
風神だけを畿内に取り入れ、それを祀っていた先住民族を配流するという習慣が根付いた。
しかしその絶大な霊力を恐れていたため、祟りを回避する文化が京都で発達した。
元々、福を祀っていたのは鬼。そこには祟り配流左遷もなかった。

唐人駄馬には風神アネモス(民宿青岬)が先史時代から祀られています。
風を感じる感覚は古代人も上代人も同じ。
それほど風も吹かない龍田に風神国御柱神を祀っていること自体が非合理的。





ヨサコイには古代大和の自由と平等の雰囲気が残っています。

様々なチーム(民族)が酒(酒解神)や踊り(ウズメ神)を中心に
自由に平等に大通りを練り歩きます。

シルクロードから様々な民族が渡来して来たときに、意思疎通を図る言語は酒と踊りでした。

その後、日本語は発達し、様々な民族/宗教が融合していきました。

踊って頂ければ古代大和の雰囲気というものがおわかり頂けると思います。

そして、その後の宴にも。。。


天皇や律令国家が日本を作ったわけではありません。

様々な民族や宗教が衝突/融合を繰り返して互いに尊重し合い認め合った時に
台風のようなひとつの有機体ができ、ヤマトという国は生まれました。

その時にイブキ(息吹)が生じました。それが風神シナネです。


日本人のルーツ 台風銀座の土佐に是非、お越しくださいませ。




※印で囲んだリンクは全て『ウィキペディア(Wikipedia)』からの引用


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2011年4月 高知県室戸市尾崎海岸で第二回尾崎祭りが開催される予定です。
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親戚から『郷土の不思議集』ばっすい南国市史-十話-というものが送られてきましたので、ちょっと中身を読みますと面白いことが書かれていまして、その中に土佐条里制のことが書かれていましたので、私もまた書いてみたいと思います。


ばっすい南国市史にも書かれているように、南国の条里制の起源というのはおそらく平城京が成立する以前のものであると私は思います。

1昨年、私も、南海道と推定される古代道路跡が発見された士島田遺跡の現地説明会に行っていたのですが、あの道路は南海道ではなく、土佐の古代条里制の跡だと思います。

といいますのは、その古代道路跡をまっすぐ伸ばしますと船岡山にあたります。船岡山と言えば京都でも重要な位置を占める山です。そしてその横に吾岡山、そして物部川を挟んでニギハヤヒ伝説のある神岡山。あきらかに何かあるでしょう。

しかも田村遺跡は弥生最大級の遺跡です。

ただ、土佐の条里制には京都、奈良とは違う特徴があります。それは道路が南南西に伸びている点です。


それがなぜかと言えば

平安京の四神と都市計画について(玄武の会)

を参照して頂ければおわかりになると思います。


土佐で興った初期大和朝廷が、朝鮮半島経由の北伝文化と黒潮経由の南伝文化、そして日本にもともと存在した先住民族文化が衝突して興ったと何度も書きました。

それをこの土佐条里制でも証明することができます。
(条里制というよりは条竜制ですが、ここでは便宜的に条里制とします)

つまり北伝とは”四神の風水都市”であり、南伝とは”琉球のグスク都市”です。

それらがせめぎあって日本初の条里制都市国家が、東西南北に四神を配置しながら南北ではなく、南南西に道路が振った形で造られたのです。


南南西に道路が振っているのは、つまり竜です。グスクもシュメール由来の竜信仰が強いため道路が曲がっています。

蛇を絵に描いて頂ければわかりますが、蛇をまっすぐ描く人はあまりいないと思います。直線は蛇や竜、うなぎなんかにおいても死を意味すると思います。それがグスクの都市計画です。

都城は生きていなければならないので、土佐秦氏は朱雀大路を西に曲げたということになろうかと思います。
(琵琶湖は南西に流れる瀬田川によって大阪湾にまで注いでいるので天智朝まではこのような都の造りを理解するグループが朝廷内で力を持っていたということだと思います)

七星剣が伝承されている旧幡多国高知県南西部の一之宮神社の内堀には今でも○○龍が祀られています。
通常であればイチキシマヒメが祀られているような場所です。奈良で後期大和朝廷が成立した時に土佐南西部はあまりにも遠いため、つぶし込みを免れたのだと考えられます。今でも北斗七星を主祭神として祀ってる神社も結構、ありますし。。。鎌倉で最も古い龍口明神社もこの系統です。



話を元に戻しますと”土佐高賀茂大社-田村遺跡-七ツ淵”がハハキ(竜木)の方角で並んでいます。

この造りを持っている地域は香長平野はもちろんのこと、完全な大王級の参道を持つ徳王子地区や蘇我赤兄伝承がある安芸地区です。

南南西とは逆の丑寅の方角というのは、土佐から見ればサの神が抜けるサヌキの方角、淡路/琵琶湖の方角なので聖なる方角といえば聖なる方角です。乾の方角は朝鮮半島ですし、未申は古代秦王国、琉球の方角です。

そう考えると古代土佐においては東西南北というよりも、丑寅/辰巳/未申/乾の方角のほうが大事であったのかもしれません。


しかし、この南伝の文化が北伝文化と融合した邪馬台国文明というのは、奈良で北伝文化のみが力を持つことによって急速に力を失っていきました。それと同時に賀茂氏も歴史の表舞台からは姿を消し、一言主が奈良から土佐に流されたという辻褄の合わない神話が幅を利かせるようになったのだと思います。

仕上げは長屋王の骨が土佐に流されることによって、南伝文化の永久封じ込めに、ある程度成功したのだと思います。

しかし、明治初頭に明治天皇は即位の礼の時に四国から崇徳天皇の御霊を京都に帰還させたのでした。



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2011年4月 高知県室戸市尾崎海岸で第二回尾崎祭りが開催される予定です。
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馬楽さんが今月、桑名に行っちょったみたいやけんど、自分も桑名の多度大社に行ってました。

桑名と土佐の古代をちょっと調べてみたけんど色々と出てきました。

ずーっと今まで書いてきた土佐と美濃の関係、これが※元正天皇※というキーワードで解かれていきます。

元正天皇が養老という元号を定めたがは、養老の滝に魅せられたき。養老山地の最南端の多度山に多度大社があり、そこが桑名。


養老元年には越前秦氏の秦澄(たいちょう)が白山三馬場を開いちゅう。同じ年に京都の愛宕神社も役小角とともに開山しちゅう。つまり元正天皇は修験道とも秦氏とも深い関係にあった。

長屋王は元正天皇のいとこで骨が土佐に流されている。


元正天皇の母親が元明天皇で、その母親が蘇我倉山田石川麻呂の娘。

蘇我倉山田石川麻呂の兄弟に蘇我赤兄がおる。そう高知県安芸市・安芸氏の祖先とされる蘇我赤兄。


そう、つまりは、長宗我部氏が桑名氏(四十八家)を引き連れて土佐にやってきたという話はまんざらでもなくて蘇我氏秦氏の強力タッグの激震地として古代から土佐と桑名は密接な関係があったということ。


つまり美濃斉藤氏の支流・石谷頼辰(いしがい よりとき)が山崎の合戦後、元親の家臣になったりしたのは、古代蘇我氏つながりだったのです。だから長宗我部氏。

甲斐武田氏が土佐にやってきて宗我部を名乗ったのも、土佐が蘇我氏の大本家であるという認識があったからやろうと思う。古代波多国の国造は天韓襲命で、その前が蘇我大王。土佐国唯一の前方後円墳が宿毛にある。曽我山古墳


熱田と多度の結びつきも強い。織田信長が藤原信長をしたためたがは熱田神宮。

天武天皇に神刀を献上させられたがは土左大神。


『土佐物語』には、斉明天皇が後の天智天皇と天武天皇を引き連れて土佐の朝倉に逗留した様子が描かれている。土佐にはその伝承があるし斉明天皇の陵もある。


つまり、織田信長と長宗我部元親の争いは天智天皇と天武天皇との争いに遡ることができる相当深い隠喩がある。


やはり天智天皇の都は白鳳の大地震で土佐沖に没した黒崎の宮か。


そうすれば壬申の乱時に取った天武天皇側の不自然な行軍が自然なものになるし、土佐二之宮・朝倉神社周辺の伝承も辻褄が合う。


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最近、ひまわり太郎さんが浦戸湾七島の記事を書かれよりますが、『浦戸湾七島』知りませんでした。こじゃんと重要です。

[2443] 竹島のてっぺん - 2009/12/23(Wed)

[2444] 竹島の全貌 - 2009/12/24(Thu)

[2445] 洞ヶ島探検 - 2009/12/25(Fri)

綿密なフィールドワークがおもしろい。

[1889] JRの高架から比島を眺める - 2008/06/17(Tue)

上記記事から『浦戸湾七島』を列記しますと、大島・葛島・田辺島・洞ヶ島・竹島・玉島・比島です。

ちなみに伊豆七島は大島・利島・新島・神津島・三宅島・御蔵島・八丈島が一般的です。

この中で大島・利島・新島を神格化した伊豆最古の神社に何度も調査に入っておりまして、伊豆の古層の信仰に三体妙見信仰が横たわっているのを発見しました。



オンチャンも記事にされちゅうように変な木 - 嶋宮神社(南国土佐へ来てみいや)、3女神を祀る三体妙見が高知に存在したがは確実で、土佐と伊豆の関係は、はるか古代に遡ることができます。


つまり、浦戸湾七島に存在する神社群は、もともと各個独立して発生した信仰の場所やなくて、巨大な信仰体系の中から合理的に生まれてきた土佐に発生しちょった王権の爪あとやということができると思います。


3女神を祀る北九州が大和朝廷と深く関わちょったこと、そして、伊豆最古の神社が三体妙見信仰を持っちゅうこと、この両者をつなぐ位置にある土佐にそれらを超越する巨大信仰の爪あとが残っちゅうことを分析したら、明らかに土佐の古代が、朝廷によって完全封印されたことが理解できます。

むしろ逆に、島が神格化された古代において、内湾に多くの島を持つ土佐に王権が生まれんかったということを証明することのほうが困難を極めるでしょう。

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[2407] 介良の旧道が広がりよります - 2009/11/17(Tue)

[2406] 上岡の山で妄想が暴走 - 2009/11/16(Mon)


ひまわり太郎さんが、上岡山の八幡宮が立つ山を古墳じゃないろうか、と書かれちゅけんど、妄想などではなく、ほぼ古墳で間違いないと思います。


自分も全国の古墳や神社を巡っていますが、小高い山の上に鳥居が立てられちゅう神社は、古墳を守るために建てられちゅうと考えてえいと思います。


高天原山山頂からも古墳時代の遺物が出てきちょりますが、あの山頂にある巨石群は間違いなくイワクラであり、古代祭祀の場所です。そこで日・月・星を祀る伝統があるわけですから王墓であることは間違いがないと思います。


また北に行きました延喜式内社小野神社も小高い山の上が本殿になっています。間違いなく小野系の王墓、つまり古墳時代の倭国を統一していた天皇である可能性が高いです。


そして、南国の船岡山、吾岡山。これも古墳でしょう。罰当たりなことにこれらの山の土を削り取った輩がいます。


そして、もちろん斉明天皇没地とされるウグルス山も古墳であり、王墓です。


十市の新宮神社もそうでしょうし、大津の慶児神社なんかもそうやと思います。


その中で一番大きいがが高天ヶ原古墳群です。


高知に古墳が少ないというがは、高知の歴史家に古墳に対する理解度が少なかったからで、古墳への理解度が上がれば、高知からも巨大な前方後円墳が出るのは間違いがありません。


この国の古代史学は、九州と畿内、そして最近では出雲地方の地域おこしのための捏造の歴史でもあるので、そういうものに惑わされずしっかりと自分の眼で見て、自分の足で確認したいものです。


関東のほうでも、三角縁神獣鏡が出土した古墳であるにも関わらず、ここ10年~20年の間に狂気的な企業によって盛り土に使われたりしゆうぐらいですき、無法地帯なわけです。


畿内になぜあれほどの古墳が残っちゅうかというたら、古墳を残すことが観光につながってきたわけですから、それができたわけです。


しかし、古墳は発見されてないものの方が多く、古代寺院の分布を考えても、畿内に古墳時代から王都があったなどということは100%ありえない話です。


まずは私たちひとりひとりから、狂気の戦後歴史学者の世迷言を鵜呑みにせず、自分で調査し、自分で結論を出していくことが必要でしょう。


万世一系に基づく天皇論は排して、各地域の大王(おうきみ)から天帝が交替で選出されていたという本来の天皇制のありかたに戻さないといけないでしょう。

多民族国家大和

古代史に関することは上記ブログに書きはじめました。

ユーラシアの様々な宗教文化を吸収・融合して縄文世界と結合させた初期大和王権が土佐で興ったという設定です。

昨日、ある方と話をした時に、気になっちょったことがあるのでまとめちょきたいと思います。

四国、特に高知の古代においてかなり重要な要素になるがが、川なんですけれども、古代、神河(みわがわ)と呼ばれた仁淀川『ウィキペディア(Wikipedia)』の水源はウィキペディアにも記載されちゅう通り、石鎚山になります。でも古代土佐人はそのすぐ隣にある瓶ヶ森を水源とみなしちょったがやないかと感じます。平安時代以前は石鎚山より瓶ヶ森の行場のほうが栄えちょったらしいですき。

ほんで吉野川『ウィキペディア(Wikipedia)』の水源が瓶ヶ森で、古代、鏡川と呼ばれた物部川『ウィキペディア(Wikipedia)』の水源は剣山系白髪山になります。


つまり、四国の2大山である石鎚山系と剣山系の水が、それぞれ(現)鏡川、(現)国分川と合流し、浦戸湾に注ぎ込みよったわけです。

その構造を以って土佐は古代、巨大風水都市の名を欲しいままにしてきたわけです。

風水の根幹の思想に「蔵風聚水」(ぞうふうじゅすい)という捉え方があります。これは風をたく(蔵)わえ、水を集(聚)めるという意味ですが、四国2大山である石鎚山と剣山から水を集める浦戸湾を擁す高知市中心部は蔵風聚水都市と考えて良いと思います。

しかも、土佐一之宮土佐神社の古代主祭神であると推測される『しなね様』は風の女神です。手結に風待ちの文化があるように、浦戸湾にも古代、巨大な風待ち、すなわち『風』を神聖視した文化があったがは確実でしょう。

この風水都市構造に、北は七ツ淵、南は竜王宮、東は介良三山や船岡山、西はライオン岩や鴻ノ森、これら四神が絶妙に配置され、そのど真ん中に神功皇后伝説の玉島があるがは、決して偶然やなくて、むしろ神話が自分らあ土佐人の目の前で未だに動きゆうとも言うてえいような状態です。


これらの構造に浦戸湾の子宮的構造や孕みのジャンなんかを加えていくと、ものすごく深いレベルで縄文の信仰と古代中国やオリエントの信仰が土佐で融合した痕跡を幾つも発見できるがです。


四国三郎吉野川は阿波海に注いで紀国の吉野川と比翼連理を為すわけですが、この構造を認識するだけで、日本の文明が四国で発祥し畿内へ移動していったと考えることのほうが自然やと思います。



思い込みと偏見を取り除いたら色んなもんが見えてきます。



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[2351] 菅原高視さんは何故ここに住んだのか - 2009/09/22(Tue)

ひまわり太郎さんが書かれちゅうこの記事。こじゃんと面白い。

自分も別のブログで菅原高視関係は追いゆうけんど、この問題を見ていくことで古代史の謎がかなり解けてくる。


①なんで菅原道真が左遷されたがか?
  
  解→北極星信仰の頭領やったき。


②北極星信仰の何が悪かったがか?
  
  解→天皇家を覆すほどの力を持っちゅうき。


③なんで菅原高視は潮江に住んだがか?

  解→高見山横のライオン岩こそスフィンクス(牛)やき。



潮江は牛尾の江とも解され、佐渡の牛尾神社の例祭は天王祭。

天王とはすなわち牛頭天王であり、北極星信仰。

高知にも天王ニュータウンというのがある。これは牛頭天王のことで、北極星信仰があったということ。明治時代の神仏分離で牛頭天王は封印されたけんど、天王の地名は全国各地にある。

茅の輪潜り『ウィキペディア(Wikipedia)』は全国にあるけんど、輪抜け様いうがは高知だけ。

この茅の輪潜りも実は北極星信仰で、潮江天満宮は日本最古と言われる防府天満宮よりも古い。茅の輪潜りの発祥の地はおそらくは潮江天満宮やろうと思う。


潮江と介良はこじゃんと密接な関係があって、ライオン岩と五台山あるいはライオン岩と介良三山は男性と女性の関係にあって、浦戸湾を中心に輪抜け様みたいに八の字にぐるぐる回ることによって何かを生み出しよったがやないかと思う。


  ●参考→ジンテーゼと三位一体(土佐邪馬台国)(過去記事)


八の字を描いたら最後は北の土佐神社へ抜けるがやけんど、北極星信仰の聖地というがは山を上がったところにある。


このように、古代史というがは正史とはかけ離れたところにあって封印の連続というてもえい。


民衆から支持された菅原家は、皇室を私物化した皇族に放逐されました。それでも高視は、朝廷に頑強に抵抗し、国衙で執務をするがやなくて、古代から連綿と続く潮江の北極星信仰の地に住んだがやないかと思います。


菅原道真の時代は、空海などによって仏教による鎮護国家が完成されつつあったわけですが、牛頭天王や吉祥天女などの古代日本の北極星信仰を刺激する仏教文化も入ってきて、天皇家としては非常に厄介な時代でした。

古代の日本に戻そうとする民衆の復古主義(自由主義的天皇制)と、民衆支配を強め権力を我が物にしようとする支配主義的天皇制の争いが延々と続いていきよったがです。いうたら菅原高視は10世紀の自由民権運動家というてもえい。

これは、邪馬台国と狗奴国の戦いもそうやったし、薩長藩閥政府と自由民権運動の戦いもそうやった。このように自由民権運動いうがは何千年もの間、土佐から発せられゆう連続したエネルギーであって、このエネルギーが絶えることはないやろうと思います。

いわば、土佐自体が日本においては永遠のアンチテーゼであって、土佐のアンチテーゼはテーゼを常に支配するわけではないということながですね。日本がおかしくなってきて支配主義が横行した時に爆発するように出てくるなんかの装置のようなもんで、平時はひとっちゃあ機能しやせんアンチテーゼながです。でも、それがひとたび爆発しようもんなら、深い深い日本の古代の力を伴って出てくるもんじゃき、どこの地域もそれに対抗する力を持ち合わせんということなが。


弥生時代に完成された土佐邪馬台国の宗教原理というがは、それほど強力ですごいもんやったがよね。


結局、平安時代もこれらの古代信仰への揺り戻しを抑えることができんかったき、武士が誕生し、二重権力構造という世界的にも珍しい政体ができていくわけです。


ほんで、武士が幕府を打ち立てて、自らが北極星になるという文化が出来上がっていったがです。

日光は江戸にとっての北極星でもありますが、源頼朝の信仰をうまく家康が吸収しました。結局それも龍馬という北極星信仰の若者によって瓦解するわけですが。


【高見のたこ焼き】いうて、おいしいたこ焼きがあるけんど、もともとは菅原高視の北極星信仰に端を発しちょって、輪抜け様も牛もこれらあと密接な関係があるっちゅうことながよね。


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