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《日本語のルーツ「土佐弁」》 ★感嘆詞⇒げに まっこと お~の たま~ あっぽろけ しもうた ばっさり やまった なんちゃあ いうたち ★代名詞⇒あて あし おまん おんしゃ ★名詞⇒いられ どくれ もがり いちがい おらんク おまんク ひとんク あしんク あいちゃぁんク ちゃりす ほげす てんくろう くそじんま ごくどー ひいとい ようだい ばいあい まちまい いこじ いごっそう はちきん わかいし わりことし ★副詞⇒しょう こじゃんと どだい たまるか たいちゃ びっしり ぎっちり ぼったり ばっつり ぼっちり ちっくと しゃっち ざんじ しゅっと めっそ ひっしかっぱ ひがち さいさい ★形容詞⇒へごな のかな へすこい ひやい ぬくい みぞい しわい いそしい えずい やりこい ちんな たっすい したらこい むつこい たいそい めんどい あやかしい むつい またい かあくろしい ばばひい およけない とろこい ほうやくな しんよい ★動詞⇒ひせくる びちくる ぞぶる まぎる ちゃがまる たれもつる たごる ねぶる りぐる かやる のうがわるい ほたえる そばえる たつくる うまえる えぜる ロイつく えつくる さらばえる ほりこかす はりまわす めった いぬる ぞ~くそわるい しのべる くるめる ばぶれる いこる ゾンゾンする しゅんじゅう こたう ★語尾⇒ちゅう にゃあ ちや ぜよ じゃいか やき じゃき ★活用例:こじゃんと ぞ~くそわるい(私は非常に気分が悪い) ・ちっくと待ちよってや!今からざんじいんでしゅっと来るき(ちょっと待っててね、今からすぐに家に帰って、それからまた来るから) ・さいさい来てや!(暇があったら酒の肴でも持って、いつでも飲みに来てね)
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460年(雄略天皇4年)天皇 < 一言主   (古事記説)    712年成立
             天皇 = 一言主   (日本書紀説)720年成立
             天皇  >一言主   (続日本紀説)797年成立 ≪一言主流刑説勃発≫


上記のように712年以前は一言主が天皇よりも権威を持っていた。


675年 土佐大神(土佐高賀茂大社) 神刀一口 天武天皇に献上

686年 秦石勝が天武天皇の病気平癒を祈願
     

710年に都が平城京に遷都した時、一言主は遷都した元明天皇自身よりも
間接的に権威を持っても良いという存在であったのである。


土左大神=一言主とするのは、まだ議論が必要だが、少なくとも当時の土佐高賀茂大社に
天皇の権威を超越する神が存在したという点において一言主神を便宜的に使用する。



797年の続日本紀において初めて一言主神の流刑が言及された背景に、天皇が一言主よりも権威を持つようになったというパワーバランスの変化があったことは疑いようがない。


現在の土佐神社の祭神は、土佐風土記逸文にもよるもので、少なくとも古事記成立時の712年
あるいは、元明天皇が風土記編纂の命を713年に出したとしても、その当時の時点で


一言主は土佐の土着の神であり、天皇よりも権威を持っていたということは
100%、公然の事実であったのである。


そして
オオナムチ - アジスキタカヒコネ(迦毛大御神)
        シナネ神
        一言主
        土左大神   -    天河命 - 浄川姫
                    葛木男 - 葛木


一言主は賀茂氏の祖神であり、アジスキは迦毛大御神という

大御神は天照と迦毛の2神だけであり
天皇よりも権威を持つというのは自然の理ということができるだろう。



都佐国造が祀る神に、後に賀茂氏が大和から流れてきて一言主神等の神格を与えただろうという説が一般的だが、そうであれば天武天皇が神刀一口を土左大神から受け取る以前に賀茂の本体が大和から土佐に遷り土着したという記述が古事記になければいけない。


以前にも書いたが、レガリアの本体(神刀の魂)が、大和の葛木山に存在するならば、天武天皇は都から近い大和葛城山からレガリアを受け取れば良いのではないか?


それに対する一般的な答えは、”いや、一言主は土佐に配流されたから”である。



しかし、古事記が編纂された元明天皇の時代には



一言主配流説は存在せず



土佐国風土記に


土左の高賀茂の大社あり、其の神のみ名を一言主尊と為す。
土佐の高賀茂大社に一言主尊



と書かれているのである。



風土記に記すべき内容として下記の五つが挙げられている。
  1. 郡郷の名(好字を用いて)
  2. 産物
  3. 土地の肥沃の状態
  4. 地名の起源
  5. 伝えられている旧聞異事

だとするならば、風土記が編纂される時点で
大和から賀茂氏が土佐に移住し一言主を祀ったのであれば
そのことを記載しなければ風土記の意味がないはずである。


しかも、天皇よりも権威を持つ迦毛大御神について
土佐に一言主あり(いにしえ大和葛城山からうつりし)
などという中途半端なことが許されるはずがない。


大和葛城山から移ってきたのであればその経緯を記載しなければならない。


それがないというのであれば一言主は土佐土着の神であるという結論にしか達さない。


風土記は散逸しているから、その部分は喪失しているというのであれば
天武天皇は大和葛城山から賀茂のレガリアをもらえばよかったはずである。



シナトベが女神であるから、シナネは風の男神ということになる。

龍田大社においては天御柱がシナツヒコ
伊勢神宮に至っては『神風』を吹かせた風日折宮



アジスキも一言主もシナツヒコも”口”をキーワードにひとつにつながっている。


つまり、これらはギリシャ哲学でいうところのプネウマ【存在の原理】を意味している。

英語ではスピリット、インドではプラーナである。


賀茂氏は海神族であるから風の神(シナネ、シナツヒコ)を祀るのは当然であろうし

一言(風)が、善事も悪事も一切吹き飛ばすというのは真実である。
台風は善でも悪でもない。あるいは善であり悪でもある。
台風銀座の土佐が一言主の出元であるというのは地形的必然である。

アジスキタカヒコネが高天原からの息とするならば
滋賀県の彦根と伊吹山の関係もそういう意味で捉えなおす必要があるだろう。


地震や噴火を神の御業としていたならば、台風も神の息と捉えていただろうことは自然の帰結。



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土佐史談192号に”「賀茂之地」はどこか”項(橋田氏作)がある。

ことの発端は『釈日本紀』にみられる”初め賀茂之地に至り、後に此の社に遷る”の一文である。

此の社が、現在の土佐神社であることは誰もが認めるところだが、初めの賀茂之地が問題なのである。

①戦国に生きた谷忠兵衛は、須崎の賀茂神社をその比定地としている。

②鹿持雅澄は、入野松原に設定している。

③竹崎五郎氏は、高知市鴨部をその比定地としている。

④伊野部重一郎氏は、入野の賀茂神社をその比定地としている。

⑤前田和男氏は、宿毛の平田あたりという説を展開している。


これらをまとめる形で橋田氏は、⑥入野の北、加持の三島神社を”初めの地”として設定した。

なかなかの推理である。


国造本紀には、都佐国造のルーツは三島溝杭とされている。

三島信仰を巡っては、伊豆と瀬戸内がそのルーツで過去、争いを起こしている。

ただ、静岡の方は、三島が3つの島を信仰するような形態に移行していること、瀬戸内のほうは、三島をそもそも神島と書いていたことからも、少し対象が異なっていたように思う。

これらに対して、土佐の三島信仰が、そのどちらから来たというよりも
以前書いた、海に沈んだ土佐沖の大陸への信仰としても面白いのではないかと思う。


津野・梼原町近辺に存在する三島神社は、普通に考えれば、伊予からの勧請とするだろう。

しかし、須崎周辺に存在する集落消滅伝承と三島信仰が大地震後、加持や津野町のほうに徐々にせりあがったことも可能性としてはないわけではない。


いずれにしても賀茂之地が波多国から都佐国に遷ったというのは可能性としてはかなりあるだろうということである。

律令制以前は、都佐国よりも波多国のほうが先進地域であったとするのは論を待たず、その後、斉明天皇が高知市の朝倉で行宮をこしらえるに至る、この100年ほどの間の激動はいかばかりかと思うほどである。



伊都多神社 - 御祭神は三嶋神が龍神から救った三姉妹の一人か


おんちゃん言うように高知のイズタ神社が3姉妹で、イズナヒコが一言主なら
イズナヒメ、イコナヒメとは一体だれなのか?という大問題が浮上してくる。

ちなみにイズノメはかなりの埋没神である。

そもそも、土佐沖にあった島が3島でそれぞれ沈んだ場所を後世に伝えるために3つのイズタ神社を作り、賀茂之地を入野から高知市内に移した。このタイミングが、ひょっとすると全て白鳳の大地震直後であった可能性も否定できない。


3つの島が連なっていたとすると、黒潮町沖、須崎沖、浜改田沖だろう。

三角型のピラミッド山を信仰していた賀茂一族が3つの島を信仰するのは、自然の理に適っている。住吉信仰もこれであり、古くは三体妙見も、そうである。


黒田、黒崎、黒鳥から見えてくる土佐初期大和王権


でも書いたように、自分の仮説は
675年に土左大神が天武天皇に神刀一口を献上した時の土佐高賀茂大社は、沈没した黒田郡にあったのではないかということである。


つまり釈日本紀に見られる「賀茂之地」とは


⑦白鳳の大地震で沈没した黒田郡である。


としたい。



気になるので7-8世紀あたりを少しまとめてみます。


660年頃 ヒエ寺/秦泉寺/神通寺大伽藍を形成 土佐条里制 既に完成

661年 宝皇女(たからのひめみこ)「斉明天皇」 土佐朝倉で没(陵はウクルス山)
     唐/新羅の暗殺計画成功→宝皇女は大和屈指の女戦略家
      『土佐物語』に当時の様子は克明に記されている。

663年 白村江の戦いで高宗(こうそう)の唐に敗北 唐/新羅人が大挙として畿内に流入
      ※高宗※は皇帝ではなく天皇の称号を使用したことでも知られている。

673年 天武天皇即位
      天武天皇は大王という呼称を天皇に改めるよう命じた
  
      即位の礼時 北四国 翠波峰(水の神)-豊受山(風の神)を奉祭
      その後    広瀬(水の神)-龍田(風の神)を創建し、異常なスピードで奉祭    
      天武天皇が恐れた神風 大和路(※やまじ※)
      やまじが吹いてくると考えられていた南の方角に風神シナネを配する土佐高賀茂大社

      土佐高賀茂大社の主祭神アジスキタカヒコネの別名は
      迦毛大御神(かものおおみかみ)
      古事記内で大御神がつくのは迦毛大御神と天照大御神のみ
      本来は、天照大御神→太陽神男神 迦毛大御神→風水月神女神
      迦毛は鳥、風によって飛ぶ。


675年 風神土佐大神(土佐高賀茂大社) 神刀一口 天武天皇に献上

同年   風神龍田大社創建

678年 上賀茂神社創建

686年 秦石勝が天武天皇のご病気(神刀のたたり)平癒を祈願するため
      土佐高賀茂大社に出戻り訪問

724年 聖武天皇即位の年に天皇勅願で行基が五台山(高知市)を開基(神亀元年)

727年 光明子 基王を生む

728年 基王が亡くなり 長屋王の変が起きる(骨は土佐へ流される)

729年 光明子 皇后へ立后(藤原氏では初の子女/聖武天皇の妻)

764年 藤原仲麻呂(恵美押勝)と淳仁天皇(淡路廃帝)が
      考謙天皇/道教勢力と対立→恵美押勝の乱へと続く
      塩焼王(-10月21日)を今帝として擁立
 
      高賀茂田守が円興とともに恵美押勝の乱の混乱に乗じて
      土佐高賀茂大社から一言主を連行
      葛城一言主神社創建   

      ※円興※は道教の弟子。高賀茂田守の兄。
      道教が円興を使って高鴨神を土佐高賀茂大社から誘拐したのは明白。
      奈良葛城が一言主の本地ならば675年の土佐大神による神刀献上時に
      高鴨神の移行が行われるべき。そうでなければ天武天皇が配流先の神から
      皇室守護の三種の神器である神刀を受け取ったことになります。
      どう考えてもありえない話です。

      ましてや神刀献上直後に京都上賀茂神社が
      創建されているのは明らかな因果関係がある。

      このすべての問題をクリアするひとつの事実は
      一言主(高鴨神)は土佐土着の神であるということ。

      土佐は淳仁天皇派だった。
      764年に誘拐事件を実行するということは恵美押勝と淳仁天皇のバックに
      土佐大神が存在していたことを道教は、はっきりと認識していた。

      これは本能寺の変の時に、織田信長が関白・一条内基のバックに長宗我部元親が
      存在することを認識していた構図と同じ。
      本能寺の変のルーツは高鴨神連行事件にまで遡る。


769年 塩焼王の息子 志計志麻呂が皇位奪還を計画したとして土佐配流
      高知県須崎市に供養塔

782年 氷上川継(志計志麻呂の弟/志計志麻呂本人とする説もある)の乱
      これに連座して藤原 魚名が大宰府へ左遷
      息子の藤原鷲取が土佐に左遷


(前王朝/土佐出雲邪馬台国)は外、福(風神)は内>戦略成功
風神だけを畿内に取り入れ、それを祀っていた先住民族を配流するという習慣が根付いた。
しかしその絶大な霊力を恐れていたため、祟りを回避する文化が京都で発達した。
元々、福を祀っていたのは鬼。そこには祟り配流左遷もなかった。

唐人駄馬には風神アネモス(民宿青岬)が先史時代から祀られています。
風を感じる感覚は古代人も上代人も同じ。
それほど風も吹かない龍田に風神国御柱神を祀っていること自体が非合理的。





ヨサコイには古代大和の自由と平等の雰囲気が残っています。

様々なチーム(民族)が酒(酒解神)や踊り(ウズメ神)を中心に
自由に平等に大通りを練り歩きます。

シルクロードから様々な民族が渡来して来たときに、意思疎通を図る言語は酒と踊りでした。

その後、日本語は発達し、様々な民族/宗教が融合していきました。

踊って頂ければ古代大和の雰囲気というものがおわかり頂けると思います。

そして、その後の宴にも。。。


天皇や律令国家が日本を作ったわけではありません。

様々な民族や宗教が衝突/融合を繰り返して互いに尊重し合い認め合った時に
台風のようなひとつの有機体ができ、ヤマトという国は生まれました。

その時にイブキ(息吹)が生じました。それが風神シナネです。


日本人のルーツ 台風銀座の土佐に是非、お越しくださいませ。




※印で囲んだリンクは全て『ウィキペディア(Wikipedia)』からの引用


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2011年4月 高知県室戸市尾崎海岸で第二回尾崎祭りが開催される予定です。
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親戚から『郷土の不思議集』ばっすい南国市史-十話-というものが送られてきましたので、ちょっと中身を読みますと面白いことが書かれていまして、その中に土佐条里制のことが書かれていましたので、私もまた書いてみたいと思います。


ばっすい南国市史にも書かれているように、南国の条里制の起源というのはおそらく平城京が成立する以前のものであると私は思います。

1昨年、私も、南海道と推定される古代道路跡が発見された士島田遺跡の現地説明会に行っていたのですが、あの道路は南海道ではなく、土佐の古代条里制の跡だと思います。

といいますのは、その古代道路跡をまっすぐ伸ばしますと船岡山にあたります。船岡山と言えば京都でも重要な位置を占める山です。そしてその横に吾岡山、そして物部川を挟んでニギハヤヒ伝説のある神岡山。あきらかに何かあるでしょう。

しかも田村遺跡は弥生最大級の遺跡です。

ただ、土佐の条里制には京都、奈良とは違う特徴があります。それは道路が南南西に伸びている点です。


それがなぜかと言えば

平安京の四神と都市計画について(玄武の会)

を参照して頂ければおわかりになると思います。


土佐で興った初期大和朝廷が、朝鮮半島経由の北伝文化と黒潮経由の南伝文化、そして日本にもともと存在した先住民族文化が衝突して興ったと何度も書きました。

それをこの土佐条里制でも証明することができます。
(条里制というよりは条竜制ですが、ここでは便宜的に条里制とします)

つまり北伝とは”四神の風水都市”であり、南伝とは”琉球のグスク都市”です。

それらがせめぎあって日本初の条里制都市国家が、東西南北に四神を配置しながら南北ではなく、南南西に道路が振った形で造られたのです。


南南西に道路が振っているのは、つまり竜です。グスクもシュメール由来の竜信仰が強いため道路が曲がっています。

蛇を絵に描いて頂ければわかりますが、蛇をまっすぐ描く人はあまりいないと思います。直線は蛇や竜、うなぎなんかにおいても死を意味すると思います。それがグスクの都市計画です。

都城は生きていなければならないので、土佐秦氏は朱雀大路を西に曲げたということになろうかと思います。
(琵琶湖は南西に流れる瀬田川によって大阪湾にまで注いでいるので天智朝まではこのような都の造りを理解するグループが朝廷内で力を持っていたということだと思います)

七星剣が伝承されている旧幡多国高知県南西部の一之宮神社の内堀には今でも○○龍が祀られています。
通常であればイチキシマヒメが祀られているような場所です。奈良で後期大和朝廷が成立した時に土佐南西部はあまりにも遠いため、つぶし込みを免れたのだと考えられます。今でも北斗七星を主祭神として祀ってる神社も結構、ありますし。。。鎌倉で最も古い龍口明神社もこの系統です。



話を元に戻しますと”土佐高賀茂大社-田村遺跡-七ツ淵”がハハキ(竜木)の方角で並んでいます。

この造りを持っている地域は香長平野はもちろんのこと、完全な大王級の参道を持つ徳王子地区や蘇我赤兄伝承がある安芸地区です。

南南西とは逆の丑寅の方角というのは、土佐から見ればサの神が抜けるサヌキの方角、淡路/琵琶湖の方角なので聖なる方角といえば聖なる方角です。乾の方角は朝鮮半島ですし、未申は古代秦王国、琉球の方角です。

そう考えると古代土佐においては東西南北というよりも、丑寅/辰巳/未申/乾の方角のほうが大事であったのかもしれません。


しかし、この南伝の文化が北伝文化と融合した邪馬台国文明というのは、奈良で北伝文化のみが力を持つことによって急速に力を失っていきました。それと同時に賀茂氏も歴史の表舞台からは姿を消し、一言主が奈良から土佐に流されたという辻褄の合わない神話が幅を利かせるようになったのだと思います。

仕上げは長屋王の骨が土佐に流されることによって、南伝文化の永久封じ込めに、ある程度成功したのだと思います。

しかし、明治初頭に明治天皇は即位の礼の時に四国から崇徳天皇の御霊を京都に帰還させたのでした。



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2011年4月 高知県室戸市尾崎海岸で第二回尾崎祭りが開催される予定です。
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馬楽さんが今月、桑名に行っちょったみたいやけんど、自分も桑名の多度大社に行ってました。

桑名と土佐の古代をちょっと調べてみたけんど色々と出てきました。

ずーっと今まで書いてきた土佐と美濃の関係、これが※元正天皇※というキーワードで解かれていきます。

元正天皇が養老という元号を定めたがは、養老の滝に魅せられたき。養老山地の最南端の多度山に多度大社があり、そこが桑名。


養老元年には越前秦氏の秦澄(たいちょう)が白山三馬場を開いちゅう。同じ年に京都の愛宕神社も役小角とともに開山しちゅう。つまり元正天皇は修験道とも秦氏とも深い関係にあった。

長屋王は元正天皇のいとこで骨が土佐に流されている。


元正天皇の母親が元明天皇で、その母親が蘇我倉山田石川麻呂の娘。

蘇我倉山田石川麻呂の兄弟に蘇我赤兄がおる。そう高知県安芸市・安芸氏の祖先とされる蘇我赤兄。


そう、つまりは、長宗我部氏が桑名氏(四十八家)を引き連れて土佐にやってきたという話はまんざらでもなくて蘇我氏秦氏の強力タッグの激震地として古代から土佐と桑名は密接な関係があったということ。


つまり美濃斉藤氏の支流・石谷頼辰(いしがい よりとき)が山崎の合戦後、元親の家臣になったりしたのは、古代蘇我氏つながりだったのです。だから長宗我部氏。

甲斐武田氏が土佐にやってきて宗我部を名乗ったのも、土佐が蘇我氏の大本家であるという認識があったからやろうと思う。古代波多国の国造は天韓襲命で、その前が蘇我大王。土佐国唯一の前方後円墳が宿毛にある。曽我山古墳


熱田と多度の結びつきも強い。織田信長が藤原信長をしたためたがは熱田神宮。

天武天皇に神刀を献上させられたがは土左大神。


『土佐物語』には、斉明天皇が後の天智天皇と天武天皇を引き連れて土佐の朝倉に逗留した様子が描かれている。土佐にはその伝承があるし斉明天皇の陵もある。


つまり、織田信長と長宗我部元親の争いは天智天皇と天武天皇との争いに遡ることができる相当深い隠喩がある。


やはり天智天皇の都は白鳳の大地震で土佐沖に没した黒崎の宮か。


そうすれば壬申の乱時に取った天武天皇側の不自然な行軍が自然なものになるし、土佐二之宮・朝倉神社周辺の伝承も辻褄が合う。


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最近、ひまわり太郎さんが浦戸湾七島の記事を書かれよりますが、『浦戸湾七島』知りませんでした。こじゃんと重要です。

[2443] 竹島のてっぺん - 2009/12/23(Wed)

[2444] 竹島の全貌 - 2009/12/24(Thu)

[2445] 洞ヶ島探検 - 2009/12/25(Fri)

綿密なフィールドワークがおもしろい。

[1889] JRの高架から比島を眺める - 2008/06/17(Tue)

上記記事から『浦戸湾七島』を列記しますと、大島・葛島・田辺島・洞ヶ島・竹島・玉島・比島です。

ちなみに伊豆七島は大島・利島・新島・神津島・三宅島・御蔵島・八丈島が一般的です。

この中で大島・利島・新島を神格化した伊豆最古の神社に何度も調査に入っておりまして、伊豆の古層の信仰に三体妙見信仰が横たわっているのを発見しました。



オンチャンも記事にされちゅうように変な木 - 嶋宮神社(南国土佐へ来てみいや)、3女神を祀る三体妙見が高知に存在したがは確実で、土佐と伊豆の関係は、はるか古代に遡ることができます。


つまり、浦戸湾七島に存在する神社群は、もともと各個独立して発生した信仰の場所やなくて、巨大な信仰体系の中から合理的に生まれてきた土佐に発生しちょった王権の爪あとやということができると思います。


3女神を祀る北九州が大和朝廷と深く関わちょったこと、そして、伊豆最古の神社が三体妙見信仰を持っちゅうこと、この両者をつなぐ位置にある土佐にそれらを超越する巨大信仰の爪あとが残っちゅうことを分析したら、明らかに土佐の古代が、朝廷によって完全封印されたことが理解できます。

むしろ逆に、島が神格化された古代において、内湾に多くの島を持つ土佐に王権が生まれんかったということを証明することのほうが困難を極めるでしょう。

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[2407] 介良の旧道が広がりよります - 2009/11/17(Tue)

[2406] 上岡の山で妄想が暴走 - 2009/11/16(Mon)


ひまわり太郎さんが、上岡山の八幡宮が立つ山を古墳じゃないろうか、と書かれちゅけんど、妄想などではなく、ほぼ古墳で間違いないと思います。


自分も全国の古墳や神社を巡っていますが、小高い山の上に鳥居が立てられちゅう神社は、古墳を守るために建てられちゅうと考えてえいと思います。


高天原山山頂からも古墳時代の遺物が出てきちょりますが、あの山頂にある巨石群は間違いなくイワクラであり、古代祭祀の場所です。そこで日・月・星を祀る伝統があるわけですから王墓であることは間違いがないと思います。


また北に行きました延喜式内社小野神社も小高い山の上が本殿になっています。間違いなく小野系の王墓、つまり古墳時代の倭国を統一していた天皇である可能性が高いです。


そして、南国の船岡山、吾岡山。これも古墳でしょう。罰当たりなことにこれらの山の土を削り取った輩がいます。


そして、もちろん斉明天皇没地とされるウグルス山も古墳であり、王墓です。


十市の新宮神社もそうでしょうし、大津の慶児神社なんかもそうやと思います。


その中で一番大きいがが高天ヶ原古墳群です。


高知に古墳が少ないというがは、高知の歴史家に古墳に対する理解度が少なかったからで、古墳への理解度が上がれば、高知からも巨大な前方後円墳が出るのは間違いがありません。


この国の古代史学は、九州と畿内、そして最近では出雲地方の地域おこしのための捏造の歴史でもあるので、そういうものに惑わされずしっかりと自分の眼で見て、自分の足で確認したいものです。


関東のほうでも、三角縁神獣鏡が出土した古墳であるにも関わらず、ここ10年~20年の間に狂気的な企業によって盛り土に使われたりしゆうぐらいですき、無法地帯なわけです。


畿内になぜあれほどの古墳が残っちゅうかというたら、古墳を残すことが観光につながってきたわけですから、それができたわけです。


しかし、古墳は発見されてないものの方が多く、古代寺院の分布を考えても、畿内に古墳時代から王都があったなどということは100%ありえない話です。


まずは私たちひとりひとりから、狂気の戦後歴史学者の世迷言を鵜呑みにせず、自分で調査し、自分で結論を出していくことが必要でしょう。


万世一系に基づく天皇論は排して、各地域の大王(おうきみ)から天帝が交替で選出されていたという本来の天皇制のありかたに戻さないといけないでしょう。

多民族国家大和

古代史に関することは上記ブログに書きはじめました。

ユーラシアの様々な宗教文化を吸収・融合して縄文世界と結合させた初期大和王権が土佐で興ったという設定です。

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