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《日本語のルーツ「土佐弁」》 ★感嘆詞⇒げに まっこと お~の たま~ あっぽろけ しもうた ばっさり やまった なんちゃあ いうたち ★代名詞⇒あて あし おまん おんしゃ ★名詞⇒いられ どくれ もがり いちがい おらんク おまんク ひとんク あしんク あいちゃぁんク ちゃりす ほげす てんくろう くそじんま ごくどー ひいとい ようだい ばいあい まちまい いこじ いごっそう はちきん わかいし わりことし ★副詞⇒しょう こじゃんと どだい たまるか たいちゃ びっしり ぎっちり ぼったり ばっつり ぼっちり ちっくと しゃっち ざんじ しゅっと めっそ ひっしかっぱ ひがち さいさい ★形容詞⇒へごな のかな へすこい ひやい ぬくい みぞい しわい いそしい えずい やりこい ちんな たっすい したらこい むつこい たいそい めんどい あやかしい むつい またい かあくろしい ばばひい およけない とろこい ほうやくな しんよい ★動詞⇒ひせくる びちくる ぞぶる まぎる ちゃがまる たれもつる たごる ねぶる りぐる かやる のうがわるい ほたえる そばえる たつくる うまえる えぜる ロイつく えつくる さらばえる ほりこかす はりまわす めった いぬる ぞ~くそわるい しのべる くるめる ばぶれる いこる ゾンゾンする しゅんじゅう こたう ★語尾⇒ちゅう にゃあ ちや ぜよ じゃいか やき じゃき ★活用例:こじゃんと ぞ~くそわるい(私は非常に気分が悪い) ・ちっくと待ちよってや!今からざんじいんでしゅっと来るき(ちょっと待っててね、今からすぐに家に帰って、それからまた来るから) ・さいさい来てや!(暇があったら酒の肴でも持って、いつでも飲みに来てね)
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 あんまりよくわかってなかったがですけんど、マジな話で香宗我部氏(こうそかべし)は武田氏の系統らしいですね。えーっ!

272 武田家と土佐-高知市広報「あかるいまち」2007年3月号より-(高知市歴史散歩)

ちょっとまとめてみますと

  武田信義『ウィキペディア(Wikipedia)』←甲斐武田氏の初代当主
養和元年(1181年)には、後白河法皇が信義を頼朝追討使に任じたという風聞が流れ、信義は駿河守護を解任されたうえ鎌倉に召喚され、「子々孫々まで弓引くこと有るまじ」という起請文を書かされている。
     
  一条 忠頼(嫡男) 信光(五男)
親族
新田 義重(新田氏の祖)
   
  中原秋通(子)土佐香宗我部氏の祖  
      新田義貞(新田氏八代目当主)
    武田 信玄(甲斐武田家第19代当主)    
         


頼朝は甲斐武田氏の勢力を削ごうとしちょったみたいなき、嫡男の一条 忠頼を土佐に送り込むがは充分に考えられる。でも希義の一件で恩義がある土佐を流刑地に仕立て上げるがはちょっと道義に反することやとも思いますが、、、


香宗我部氏の祖・中原秋通から見たら武田氏の祖・武田信義はおじいちゃん、ほんで新田氏の祖・新田 義重は、おばちゃんのお父さんやき、そんなに遠い親戚でもなかったと思う。

源頼朝にとって甲斐源氏武田氏と新田氏が非常に厄介な存在であったことは知らんかったですね。

 

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先週、ゆうあい工房で長宗我部ファンクラブの集まりがありまして、その模様が明日(11/25)か明後日(11/26)のNHKで放映されるようです。18時10分くらいからの放映と言うてました。

自分もインタビューを受けましたが、たぶん全部カットされちゅうと思います(笑)。21日~23日のツアーとかシンポジウムも含めての放映やき、色々とおもしろいカットがとれちゅうと思います。

長宗我部ファンクラブとは言うても、めちゃくちゃ濃い方々が集まっちょって歴史研究会さながらの展開になってきよります。

藤島氏が提唱した多人数参加型長宗我部歴史小説『鳥無き島の蝙蝠』も、根底が徐々に出来上がりつつあり、信長と元親の思想的対比の中で様々なものが浮かび上がってきよります。

前回 三職推任問題~信長の夢は藤氏長者~ でも書いたように、元親と信長の問題は天皇家が乗り入れる日本全体の問題やき、大河ドラマには遜色ない壮大なストーリーになります。またこのことによって土佐=流刑地という、ある意味創られたプロパガンダを自分たちの手で覆していくという作業もできるわけです。

是非たくさんの人たちと一緒に掘り起こしていきたいものです。



おそらく元親の時代は、土佐人の意識がもっとも高まった第二のピークであり(第一は古代土佐、第三は幕末から自由民権運動時)、この時代を掘り起こすことによって、土佐とは何であるのか?を深く知っていくことができると思います。

その歴史への深い潜行の中で、土佐人は土佐の誇りと自由さを取り戻していけたらえいし、またそれが観光の資源にもなり、経済発展の土台になるような気もしてきております。


なんで長宗我部が人気が出てきゆうか言うたら、戦国時代にありながら自分たちとも通じる非常に現代的な感覚を持った戦国武将やったちゅうところからやないでしょうか。それと元親を知れば知るほど思想の深さがにじみ出てきて、当時そういう思想を持っちょったがは他に信長しかおらんかったがです。

その信長と元親が当時の天皇・正親町天皇を基点に政治的駆け引きを眼に見えんところで展開するわけやけんど、これが非常に面白い。


鳥無き島の蝙蝠なんかも、今までは四国=田舎というイメージを定着させるための動機付けとして利用されてきたけんど、実際は全然違う。土佐一条氏は当時、関白にまで上り詰めることができるほどの家柄やったし儀礼・作法なんかで土佐が京よりはるかに劣っちょったというイメージは後世に作られたイメージであることがわかります。

むしろ、紀貫之・菅原高視などの文学者・貴族が伝統的に土佐に来るような慣わしというか、雰囲気が土佐にあったわけで、土佐一条氏はその延長に過ぎんということながです。つまり土佐の公家文化は応仁の乱時に一条氏が下向して来た頃から始まるがやなくて、それ以前から伝統として土佐に存在したということながです。

日本書紀に土佐の記述が最初に出てくるがが、「神刀献上する」ですから既に7世紀にその伝統はあったわけです。

その伝統が失われたがは秀吉の中央集権国家確立以後です。

若者が戦国武将にはまる、もうひとつの潜在的な理由は、中央集権国家観から脱却したいという想いがあります。日本の連合国家観は土佐から始まっちゅうわけやき、その伝統を引き継いだ長宗我部が人気が出るというのはごくごく自然な流れであるとは思います。

 

三職推任問題(さんしょくすいにんもんだい)『ウィキペディア(Wikipedia)』という勧修寺晴豊が書いた『晴豊公記(天正十年夏記)』という日記の解釈を巡る問題があります。

何が問題になっちゅうかというたら、この日記が本能寺の変の直前に書かれたもので当時の状況がわかる第1級の資料ということで、未だ解き明かされてない本能寺の変の全貌を解く上での重要なキーになりうるもんになるということながですね。

まことしやかに言われゆう本能寺の変の後ろには朝廷内の勢力があったがやないかという説。この日記が当時の朝廷と信長のやり取りを最も詳しく書かれちゅうがですよね。

それぞれの説についてはウィキをみてもらうとして、ここでは土佐から見た解釈をひとつ。

前回、 織田信長と土佐一条家 で書いたように、本能寺の変時の関白は一条内基。本能寺の変の前年には藤氏長者(藤原氏内の最高権力者)になり、関白にまでのぼりつめています。ちなみに信長も藤原信長を自称しているように本来は藤原北家の出身です。

信長の出世スピードを超える勢いで一条内基は関白にまで上り詰めました。

表にまとめますと
 

  一条内基 織田信長
1534年   生誕
1548年 生誕  
1554年 兄・兼冬の死により一条家本流を継ぐ  
1558年 元服 正五位下  
1560年 従三位  今川義元を桶狭間の戦いで破る
1565年 権大納言  
1568年   足利義昭を奉じて上洛。従五位
1570年   正四位
1573年 正二位。土佐に逗留。一条内政(長宗我部元親に養育)の元服に際し偏諱を与える。 足利義昭追放 室町幕府崩壊
1574年3月   従三位参議
1575年春    
同年6月   長篠の戦いで武田勝頼を破る。長篠城を防衛した奥平貞昌に偏諱を与える。
同年10月 土佐から京都に帰京。内大臣就任。 長宗我部信親の烏帽子親になる
同年11月4日   権大納言就任
同年11月7日   右近衛大将就任
1576年 右大臣就任  正三位→内大臣→右近衛大将兼任
1577年 左大臣就任 従二位→右大臣→右近衛大将兼任
1578年4月   正二位(1月6日)→右大臣兼右近衛大将を辞官(4月9日)
1580年   四国政策変更
1581年 正親町天皇の関白に就任(藤氏長者)  
1582年 従一位  
同年 本能寺の変
1584年 左大臣・関白を辞し、二条昭実に譲る  

 
信長は一条内基の後を追うかのように昇進していきますが、1578年4月に突然辞任。その後なんの官職にもついてなかったことが問題にされてます。

しかし、よく考えてみると自尊心の高い信長。常に内基の尻を追っかけるような自分に嫌気がさしたがやないでしょうか。信長が全ての官職を辞した後、内基は決められたかのように藤氏長者になっています。宮廷政治で内基に完全に敗北してしもうたがです。

内基が自分の後を人殺しをやって追っかけてくる信長をライバル視しよったことは間違いがなく、晴豊公記が書かれた1582年の天皇の代理「関白」は内基ですから、信長に喜んで冠位を与えるなんてことは、あろうはずがありません。しかも内基のバックには四国統一真近の長宗我部がいるわけですから、四国の武力・関白の権威・明智の裏切りによって信長の息の根を止める勝算はおおありやったと思います。

信長と親交の深かった近衞 前久(このえ さきひさ )『ウィキペディア(Wikipedia)』が、1582年の2月に太政大臣となるが、5月には辞任しています。本能寺の変の1ヶ月ほど前です。信長は1578年に内基との出世競争に負けましたが、その後、近衛家と密通し『天下平定の暁には近衛家に一国を献上する』という約束までしています。前久から太政大臣を譲位させるつもりやったがでしょう。このことを5月に知った内基が激怒し、本能寺の変で信長を討伐したというのが、裏の歴史やと思います。

信長は覇道を目指した超人とかじゃなくて、この部分だけを見たら出世だけを夢見て、皇室のテクノクラートの最高位・関白(藤氏長者)に憧れた一青年だったということがわかります。ただ、鎌倉時代から続く摂関家に一代で肉薄したという点では天才的な才能を持っちゅうと思います。しかし、信長も元は藤原氏であります。同じ藤原北家でありながら家柄だけで官位が決まってしまう世の中に対して贖ったがでしょう。この鬱憤が、家柄ではなく才能で部下を重用するという思想につながっていったがでしょう。

いずれにしても本能寺の変は、藤原北家の内紛(秦氏も絡んでいます)であり、信長最大の敵は藤氏長者・一条内基(そのバックに存在する土佐一条家と土佐長宗我部氏、ほんでそれらと繋がる自分の家臣の光秀・斉藤利三親族)ということやったでしょう。
 

一条内基が一条氏の次期後継者にしようとした土佐一条氏の一条内政は1580年に24歳の若さで死去しています。内基の兄・兼冬も26歳の若さで死去しています。その後、内基は6歳の若さで一条家本流を継ぐわけですが、五摂家内の藤氏長者を巡る家督相続は壮絶を極めちょったということやと思います。


 一条内政の死には信長が絡んだ可能性があります、なぜなら1580年は信長の表立った四国政策変更の年。まず内基の後継者・土佐大津御所内政を亡き者にし、近衛を朝廷に暗躍させる一方で一条家の生命線・四国の切り取りを始め、関白・内基封じ込めの下準備を進めようとしていたわけです。

これに対し内基は、後ろ盾としていた土佐一条氏+長宗我部と政治工作を開始し、信長家臣団内部の一条・土岐系の明智などとも内通し、一条家を守ろうとしたわけです。

信長の四国政策変更は長宗我部と対峙するという意味と一条家との敵対関係をも暗示しちゅうわけです。美濃は元々、一条家と深いつながりがありましたから信長家臣団内部でも騒乱があったわけです。

長宗我部元親の正室は美濃斉藤氏の斉藤利三(春日局の父)の妹なんですから。斉藤利三の兄弟・石谷 頼辰(いしがい よりとき)は、山崎の合戦後、長宗我部元親に仕え、娘は長宗我部信親の正室になった。戸次川の戦いで信親と共に戦死しました。

 

摂家(せっけ)『ウィキペディア(Wikipedia)』

上の項目にありますが、鎌倉時代以降家格の頂点に立った5家のことで、土佐一条家もこれに当たります。

織田信長は、この摂家になろうと試みますが、本能寺の変で討伐されてしまい、豊臣秀吉は1585年(天正13年)に近衛前久の猶子となり、藤原朝臣秀吉(近衛秀吉)として関白就任を果たしました。

しかし、その子・秀次以降は再び五摂家が摂関の座を独占するようになり、戦前までこの流れは続きます。→将来の皇后たるべき皇室嫡流の正室(すなわち皇太子妃)となるべき者は、皇族もしくは旧摂家(五摂家)の女子に限るという不文律が存在したようです。


大津御所『ウィキペディア(Wikipedia)』である一条 内政(いちじょう ただまさ)「土佐一条氏6代目当主1557年~1580年)は元親に養育されたわけですけれども、この一条内政は、一条 内基(いちじょう うちもと)『ウィキペディア(Wikipedia)』に、名前(内の字)を与えてもろうたがです。

一条 内基(1548年~1611年)は、本能寺の変の時の関白。

摂政『ウィキペディア(Wikipedia)』は、幼少の天皇の場合に置く職であり、関白『ウィキペディア(Wikipedia)』は、語源は天皇の言葉に対し、関(あずか)り白(もう)すことから来ているように、「天皇の代理人」なわけです。

その天皇の代理人である関白が、本能寺の変の9年前である1573年~7年前の1575年まで土佐に逗留し、大津御所の元服時に名前を与えちゅうわけです。(一条内政=16歳くらい・一条内基=26歳くらい・長宗我部元親=35歳くらい)

大津御所は元親(1539年~1599年)に養育されました。上に大津御所元服時のだいたいの年齢を書きましたが、おそらく元親が内基土佐逗留時に内政への偏諱を積極的に働きかけよったがやないかと思います。

ちなみに長宗我部元親が織田信長に中島可之助を派遣して信親の『信』をもろうてきて(1575年10月)、信長と不可侵条約を結んだ時は、一条内基は土佐におりました(もしくは去った直後)。

つまり元親は35歳頃に摂関家になろうとしよったわけであり、織田信長よりもかなり早い段階で戦国のならわしを創った可能性すらあります。

ちょうどその頃、京都では信長が京都を制圧し足利義昭の追討を行ったわけですき、幕府が瓦解して信長による大政奉還が成立しました。

1575年に内基は京都に帰って内大臣に就任、1576年には右大臣、1577年には左大臣へと昇進しちょります。同年1577年には織田信長が内基の直後に右大臣『ウィキペディア(Wikipedia)』に就任しています。


下記は正親町天皇朝の歴代右大臣
*****『ウィキペディア(Wikipedia)』*****
九条兼孝  1574年 - 1576年 正親町
一条内基  1576年 - 1577年 正親町
織田信長  1577年 - 1578年 正親町
二条昭実  1579年 - 1584年 正親町
今出川晴季 1585年 - 1595年 正親町、後陽成
*****『ウィキペディア(Wikipedia)』*****



しかし、信長の最高位は右大臣であったらしく、正親町天皇が抵抗して信長の昇進をさせんかったき、信長は摂関家になるために、かねてより親密であった誠仁親王を即位させようとしましたが結局、本能寺の変で立ち消えになりました。


やき、信長と一条内基は宮廷内では、こじゃんとライバルで、内基の裏には元親が隠れちゅうわけやき、本能寺の変は土佐一条家と藤原信長を名乗る織田信長の藤原北家同士の家督相続争いでもあったわけです。(信長のルーツは越前秦氏と越前藤原氏)

その争いに、はやいとこ食い込んで、戦国の摂家になろうとした元親は非常に政治的な天才であったとも言えると思います。


信長はイクサには強かったけれども宮廷政治に失敗して討伐されるわけですけれども、秀吉は両方に強く、最終的に関白に就任します。ここらへんの政治的手腕(宮廷政治家を黙らせる)を元親は一目置いて、秀吉の配下に入ったがないかとも思います。土佐一国に減封された後でも、全国に散らばる五摂家の力を後ろ盾にしたら、2度目の本能寺を起こすことは可能やったはずですから。織田信長は少なくとも藤原氏の傍流やき、血統は悪くはないけんど秀吉は百姓の出で関白就任なんかとんでもない、当時はそう思われちょったと思います。


おそらく秀吉は、バテレン追放令を含めた政治的画策で、秦氏や藤原氏などの天皇家に近い古代氏族の封じ込めに成功したがやないかと思います。

この政治的画策は徳川家康にも引き継がれ、土佐の政治的地位はどん底にまで降下させられるわけです。その鬱憤が幕末に爆発するがですけんど、未だに幕末や自由民権運動の深いところの正確な探求はされてないき、これからですね。

[2407] 介良の旧道が広がりよります - 2009/11/17(Tue)

[2406] 上岡の山で妄想が暴走 - 2009/11/16(Mon)


ひまわり太郎さんが、上岡山の八幡宮が立つ山を古墳じゃないろうか、と書かれちゅけんど、妄想などではなく、ほぼ古墳で間違いないと思います。


自分も全国の古墳や神社を巡っていますが、小高い山の上に鳥居が立てられちゅう神社は、古墳を守るために建てられちゅうと考えてえいと思います。


高天原山山頂からも古墳時代の遺物が出てきちょりますが、あの山頂にある巨石群は間違いなくイワクラであり、古代祭祀の場所です。そこで日・月・星を祀る伝統があるわけですから王墓であることは間違いがないと思います。


また北に行きました延喜式内社小野神社も小高い山の上が本殿になっています。間違いなく小野系の王墓、つまり古墳時代の倭国を統一していた天皇である可能性が高いです。


そして、南国の船岡山、吾岡山。これも古墳でしょう。罰当たりなことにこれらの山の土を削り取った輩がいます。


そして、もちろん斉明天皇没地とされるウグルス山も古墳であり、王墓です。


十市の新宮神社もそうでしょうし、大津の慶児神社なんかもそうやと思います。


その中で一番大きいがが高天ヶ原古墳群です。


高知に古墳が少ないというがは、高知の歴史家に古墳に対する理解度が少なかったからで、古墳への理解度が上がれば、高知からも巨大な前方後円墳が出るのは間違いがありません。


この国の古代史学は、九州と畿内、そして最近では出雲地方の地域おこしのための捏造の歴史でもあるので、そういうものに惑わされずしっかりと自分の眼で見て、自分の足で確認したいものです。


関東のほうでも、三角縁神獣鏡が出土した古墳であるにも関わらず、ここ10年~20年の間に狂気的な企業によって盛り土に使われたりしゆうぐらいですき、無法地帯なわけです。


畿内になぜあれほどの古墳が残っちゅうかというたら、古墳を残すことが観光につながってきたわけですから、それができたわけです。


しかし、古墳は発見されてないものの方が多く、古代寺院の分布を考えても、畿内に古墳時代から王都があったなどということは100%ありえない話です。


まずは私たちひとりひとりから、狂気の戦後歴史学者の世迷言を鵜呑みにせず、自分で調査し、自分で結論を出していくことが必要でしょう。


万世一系に基づく天皇論は排して、各地域の大王(おうきみ)から天帝が交替で選出されていたという本来の天皇制のありかたに戻さないといけないでしょう。

多民族国家大和

古代史に関することは上記ブログに書きはじめました。

ユーラシアの様々な宗教文化を吸収・融合して縄文世界と結合させた初期大和王権が土佐で興ったという設定です。

昨日、ある方と話をした時に、気になっちょったことがあるのでまとめちょきたいと思います。

四国、特に高知の古代においてかなり重要な要素になるがが、川なんですけれども、古代、神河(みわがわ)と呼ばれた仁淀川『ウィキペディア(Wikipedia)』の水源はウィキペディアにも記載されちゅう通り、石鎚山になります。でも古代土佐人はそのすぐ隣にある瓶ヶ森を水源とみなしちょったがやないかと感じます。平安時代以前は石鎚山より瓶ヶ森の行場のほうが栄えちょったらしいですき。

ほんで吉野川『ウィキペディア(Wikipedia)』の水源が瓶ヶ森で、古代、鏡川と呼ばれた物部川『ウィキペディア(Wikipedia)』の水源は剣山系白髪山になります。


つまり、四国の2大山である石鎚山系と剣山系の水が、それぞれ(現)鏡川、(現)国分川と合流し、浦戸湾に注ぎ込みよったわけです。

その構造を以って土佐は古代、巨大風水都市の名を欲しいままにしてきたわけです。

風水の根幹の思想に「蔵風聚水」(ぞうふうじゅすい)という捉え方があります。これは風をたく(蔵)わえ、水を集(聚)めるという意味ですが、四国2大山である石鎚山と剣山から水を集める浦戸湾を擁す高知市中心部は蔵風聚水都市と考えて良いと思います。

しかも、土佐一之宮土佐神社の古代主祭神であると推測される『しなね様』は風の女神です。手結に風待ちの文化があるように、浦戸湾にも古代、巨大な風待ち、すなわち『風』を神聖視した文化があったがは確実でしょう。

この風水都市構造に、北は七ツ淵、南は竜王宮、東は介良三山や船岡山、西はライオン岩や鴻ノ森、これら四神が絶妙に配置され、そのど真ん中に神功皇后伝説の玉島があるがは、決して偶然やなくて、むしろ神話が自分らあ土佐人の目の前で未だに動きゆうとも言うてえいような状態です。


これらの構造に浦戸湾の子宮的構造や孕みのジャンなんかを加えていくと、ものすごく深いレベルで縄文の信仰と古代中国やオリエントの信仰が土佐で融合した痕跡を幾つも発見できるがです。


四国三郎吉野川は阿波海に注いで紀国の吉野川と比翼連理を為すわけですが、この構造を認識するだけで、日本の文明が四国で発祥し畿内へ移動していったと考えることのほうが自然やと思います。



思い込みと偏見を取り除いたら色んなもんが見えてきます。



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歴史街道の今月号(11月号)(PHP研究所)は、なんと長宗我部特集。

めちゃくちゃマニアック。

長宗我部元親は今や、伊達政宗・真田幸村と並んで戦国New三大武将のひとり。

しかし先日は、武将「石田三成」ブーム 滋賀長浜に「歴女」が集結(J-CASTニュース)したらしいけんど、自分も最近は家康に無性に腹が立って仕方がない。

先月は彦根城にも行っちょった。しかし、ひこにゃんブームはすごい!人が群がって全然見えん。高知もひこにゃんにあやかって(ひこにゃんは猫が兜かぶってひこにゃん)、【とさぴょん】いうて蛙に兜かぶったユルキャラ作ったらどうかと思う。登場シーンはお堀の水の中から参上!みたいな(笑)まあ、ぬいぐるみを着て潜水は無理か。

(話は変わるけんど、彦根城のお堀には船が行きよった。これは高知城でもやったらえいと思う。しかし、そのためには高知城前の車の交通量をなんとか減らさんと風情が落ちる)


『天地人』の影響もあると思うけんど(小栗旬がかわいそう{涙})、信長・家康の裏に隠れた明智光秀・石田三成などの【滅びの美学】を是非とも取り戻したいと思う。


結局、信長・家康の裏に隠れた明智光秀・石田三成を取り戻すということは、さらにその裏に隠れた長宗我部元親・盛親を捉えなおすということに他ならない。

本能寺の変の裏で信長に対抗したがは長宗我部元親であったし、豊臣側で最後まで家康に対抗したがも長宗我部盛親やった。

親子ともども絶対王政にあがなった反骨いごっそうであったがよね。

高知の人間は龍馬だけやなくて、元親が一領具足を生み出すまでに至った思想的背景などを是非、分析・把握してほしいと思う。龍馬的な自由主義は、遡ること300年前に生きた元親にも既に芽生えちょったがやき。


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