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《日本語のルーツ「土佐弁」》 ★感嘆詞⇒げに まっこと お~の たま~ あっぽろけ しもうた ばっさり やまった なんちゃあ いうたち ★代名詞⇒あて あし おまん おんしゃ ★名詞⇒いられ どくれ もがり いちがい おらんク おまんク ひとんク あしんク あいちゃぁんク ちゃりす ほげす てんくろう くそじんま ごくどー ひいとい ようだい ばいあい まちまい いこじ いごっそう はちきん わかいし わりことし ★副詞⇒しょう こじゃんと どだい たまるか たいちゃ びっしり ぎっちり ぼったり ばっつり ぼっちり ちっくと しゃっち ざんじ しゅっと めっそ ひっしかっぱ ひがち さいさい ★形容詞⇒へごな のかな へすこい ひやい ぬくい みぞい しわい いそしい えずい やりこい ちんな たっすい したらこい むつこい たいそい めんどい あやかしい むつい またい かあくろしい ばばひい およけない とろこい ほうやくな しんよい ★動詞⇒ひせくる びちくる ぞぶる まぎる ちゃがまる たれもつる たごる ねぶる りぐる かやる のうがわるい ほたえる そばえる たつくる うまえる えぜる ロイつく えつくる さらばえる ほりこかす はりまわす めった いぬる ぞ~くそわるい しのべる くるめる ばぶれる いこる ゾンゾンする しゅんじゅう こたう ★語尾⇒ちゅう にゃあ ちや ぜよ じゃいか やき じゃき ★活用例:こじゃんと ぞ~くそわるい(私は非常に気分が悪い) ・ちっくと待ちよってや!今からざんじいんでしゅっと来るき(ちょっと待っててね、今からすぐに家に帰って、それからまた来るから) ・さいさい来てや!(暇があったら酒の肴でも持って、いつでも飲みに来てね)
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長宗我部氏の時代もおもろくて

一領具足『ウィキペディア(Wikipedia)』なんかは
今、高知県民が最も取り戻さんといかん気概やろうと思う。

秀吉の兵農分離とは一線を画す政策やけど
自由・平等の土佐では一領具足は
ある程度、納得がいく体制やったと思う。

司馬遼太郎は土佐の自由・平等主義を
この後の差別から始まったみたいに言よったけんど
それは違うやろうと思う。

既に一領具足に土佐の平等主義が表れちゅう。
単にいくさに狩り出されたというレベルの話やないと思う。

四国征伐『ウィキペディア(Wikipedia)』に関しても
明智光秀を使って信長を本能寺で討たせたのは長宗我部やと思う。

最近では明智光秀の裏に皇族がおったとかいう説もあるけど
長宗我部元親は明智光秀を通して信長と友好関係を保っちょったがやき
光秀にとっては皇族よりも四国の武力のほうが援護射撃勢力としては
頼もしいやろうと思う。

でも秀吉があんなにも早く帰って来るとは元親も思わんかったやろう。
結局、長宗我部元親の天下統一も夢に終わった。

以前、土佐弁レボリューション でも紹介した

土佐人の明確さ
「未公開講演録愛蔵版5 司馬遼太郎が語る日本」週刊朝日より
(ヒューズより)

やけんど、この中に

***引用はじめ***
江戸時代の初めにロンドンでできたアジアの地図があります。日本列島も、今のような形ではありませんけれども、まがりなりにも似たような形にかかれています。四国も似たような形にかかれておりますが、四国の地名は土佐となっています。つまり、土佐だけが四国で有名だったわけですね、ポルトガル人やスペイン人がかつてこのへんまで来てかいた日本地図の原型がいろいろあり、それをロンドンの印刷屋が参考にして刷ったものでしよう。ポルトガル人スペイン人土佐という不思議な土地柄に注目して、土佐しか目に入らなかったのでしようね。
***引用終わり***

とあります。

これに近いだろうと思われる地図がWebにあります。

アジア図(九州大学附属図書館?)

上から2番目の地図(拡大)

四国がTONSAになっちょります。

司馬さんはポルトガル人やスペイン人が土佐という不思議な土地柄に注目してと言ってますが
単に長宗我部が四国を統一する勢いを持っちょった、あるいは成し遂げようとしちょったき
四国を土佐と記述しただけやろうと思います。


この地図の重要なポイントは当時の日本の権力者の力が及んでないということ。
日本の古地図よりも客観性があるということやろう。


いずれにしても高知は
時代の変わり目には絶対、息を吹き返す装置がある。

縄文時代から弥生時代(国内最古の木鍬、最古の戦争跡)

弥生時代から古墳時代(弥生後期の莫大な人口流入、田村遺跡付近)

古墳時代から奈良時代(古墳から秦泉寺へのスムーズな移行

戦国時代から江戸時代(長宗我部元親の一領具足による天下統一)

江戸時代から明治時代(薩長の国家神道に対抗する自由民権運動)


そして、中江兆民、幸徳秋水、山下奉文の思想を総合すると

自由・平等・博愛のリベラル天皇制というもんが見えてくる。

これこそ大和朝廷によって征服された
邪馬台国の後継王朝、合議制のヤマト。


一領具足でヤマト(山台)の価値を守らんといかんやろうと思う。

殿様が尾崎知事らあて、とんでもない。

高知独自の政策をやらん知事が民衆の支持を得るはずがない。

なんか何億もかけて作ったバスターミナルも失敗に終わったみたいやし。
なんぼでも言い訳を考えるやろう。

要は何が失敗したかやのうて
何を成功させようとしたか。

その方向性が打ち出せん人間が
誰かの上に立つなんていうのは原理的に不可能。

土佐人の敵は昔から決まっちゅう。

権力と格差、これだけやろ。


それが秋津が飛び交うオオヤシマ国のヤマト。


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高知の文化を世界に発信! 『はりまや橋』監督が高知県知事を表敬訪問
yahooニュース【cinemacafe.net】より

高岡早紀さんが主演に決まったらしいね。

土佐弁しゃべれる~?(笑)

しかし、あのがっかりのはりまや橋で撮影するがやろうか。

この映画をとる監督が「高知の良さ」をどこに置いちゅうのかが楽しみ。

土佐弁をうまく表現できんかったら
高知の魅力は半減するやろう。


先日はイージス艦の問題で色々と書いたけんど
友好と親善が目的なら
こういう文化的な手段で友好を図るべき。


西洋人が大量に高知に来たら
高知とそれ以外の地域の文化の違いに気づくやろうと思う。

歯に衣を着せん土佐の表現におけるメンタリティーは
西洋人と出元が同じ。

紀元前にメソポタミアとかヒッタイト、エジプトの民族が大量に
シルクロードの終点(実は四国)に流れてきて
中東付近での争いと同じ争いがあった。

それらは多民族国家でヒッタイトなんかは
5種類か6種類くらいの言語が使われちょったとか。

表現せんと生きていけん環境やったわけ。

それが高知のしゃべりの根底に眠っちゅう。
これはそれらの文明を取り入れたギリシャ・ローマなんかにも引き継がれた。

そん時の哲学が西洋世界の表現の根本。
実は高知と同じ。
高知以外の地域では縄文とそれらの文化が有機的に結合せんかった。

おそらくマレヒト信仰は黒潮圏の信仰。
沖縄がシルクロードの終点やったら沖縄が倭国の中心になったやろうと思う。

黒潮とシルクロードが出遭う所、それは高知と紀伊半島南部。
でも紀伊半島南部には残念ながら南に向かった広い平野がない。
黒潮に乗った集団が大量に降り立つ肝心の場所がない。
しかし、紀伊半島の山中には黒潮に乗ってきた渡来人が住みよった痕跡はある。

シルクロードと黒潮がぶつかる高知の地形が
どれだけすごいもんであったか、これからはっきりするやろうと思う。



(中国でもそういう本質的に他民族国家の色彩が強い時代があった)


日本のその後は中国の絶対王政が導入されて
大和朝廷が確立されたき
土佐の大和(リベラル天皇制)は封印されたね。


高知の文化を世界に発信したいというなら
土佐大和解禁→土佐ヤマタイコク解禁→土佐メソポタミア解禁
こういう流れがえいと思う。

もちろんその根底にあるのは
マレヒト信仰。それがおきゃく。

日本の文化があらゆる文化を飲み込んでいくがは
マレヒトの信仰があるき。
神道のバックボーンにはこれがある。

マレヒトを巨大な文化として継承してきたがは高知だけ。

縄文、シルクロード、黒潮。

色んな文化が流入してきて融合したのが高知。
やき土佐弁は場所がちっと違うたら言い回しが違うし
イントネーションも違う。

もともと違う言語を持っちょった民族が
土佐弁という共通語を生み出したがよ。
まあ言うたらエスペラント語みたいなやつ。

それが土佐弁、ほんでそれが日本語になったが。
万葉集が詠まれたのは高知。
高知とばっちりわかる詩は消された。
やきあんなに不自然なつくりやし、枕詞で遠まわしに言いゆう。

雄略天皇朝の都は高知やし。


これが高知の良さであって、邪馬台国(倭国)の良さ
ほんで大和の良さ。


なんにもないがやなくて
あることに気づいてないだけ。


そうでなければ、文学者や哲学者が高知からこんなにも多く輩出されるはずがない。

”都落ち”をその理由にする人がおるけんど
それは高知の平等主義と反発する考え方。

むしろ高知にリベラル天皇制の都があって
その都を大和朝廷に乗っ取られたと考えるほうが
高知のリベラルと平等主義、おきゃく、多元的言語”土佐弁”を説明できる。

また古墳時代からスムーズに移行した秦泉寺
その頃、ちょうど京都に広隆寺が。

南国市大そね乙の西野々遺跡は古代の官衙のような建物跡もでちゅうし
比江廃寺跡は比叡山と重なる。

山王権現、日吉大社の出元はここではないかと思う。

秦泉寺、岡豊、香長、野市、土佐山田、赤岡
ここらあたりの古代はあまりにも密集しすぎちゅう。

介良にはUFOも出るし。

第一、三宝山のジェットコースターは有名。




関連記事

日本神話のはじまりは土佐

日本語の発祥は土佐弁?

土佐弁の不思議

大保木村の歴史

こちらも結構おもしろい。
ボリュームがかなりある。

伝承を元に書かれてると思うので
一般に理解されちゅう正史とは全然違うところが多々ある。

どこかは言えんけんど。
この伝承が本物やろうと思う。

高知の人たちが代々受け継いできた伝承も組み合わしていくと
正史とは全然違う歴史が見えてくる。

大和朝廷だけやのうて、明治国家もかなりごと高知を痛めつけて
神社の祭神やらお祭りやらを封印しまくっちゅう。

神仏分離を隠れ蓑にして土佐大和を封印した。

新宮神社のHP

にはものすごく重要なことが書かれちゅう。

万葉集がなんで謎に包まれちゅうのか
十市に行ったら謎が解ける。

土佐日記もここからやき。

日本全国が洗脳されちゅう。
もう隠し通せんやろう。

民衆を支配し続けてきた大和朝廷の歴史ももう終わり。

ほんまの大和が復活するき。


今日はサの神さまの話を。

古代史に詳しい人にとってはサの神というのは
馴染みのある言葉かもしれませんが
あまり興味のない人にはほとんど知られていない神さまやと思います。

ほとんど知られてないけんど
日本人にものすごく関わっちゅう重要な神さま。

サクラのサというのは、このサの神のサ。

クラはいわゆる”蔵”やね。

サの神様が眠る蔵がサクラにはあるがよ。

なんで蔵っていうのかというと
春になって山からサの神様が降りてくると
サクラがいっせいに咲き始める。

やき、サの神様と呼応する何かがサクラの木にはあったと思われちょったがよ。

ほんで田植えを始める。
稲が実って、秋に感謝して北に送り返す。

その頃の認識が今の日本人にもずっと引き継がれちゅう。
蔵と言えば、倉庫みたいなところを連想する。

ほんで”暗い”というのもこの蔵から来ちゅうし
”位”もここから来ちゅう。
蔵は位が高い。

昔は”高い”という形容詞よりも”倉い”という形容詞のほうが
畏れ多いとされちょった。

水の神様で有名な”たかおかみ・くらおかみ”は
くらおかみが奥の院になる。

京都の貴船神社はこの祭神を祀っちゅう。

でもこの出元は仁淀川。

荒倉、高倉、三倉、くらま、横倉
倉神の神社がごまんとある。

これは全国どこを探してもない。

なぜなら、仁淀川がサクラの出元やき。
日本語の発祥は土佐弁

一応、この”倉”と”高”の認識は縄文的な認識やけど
それを表現するときに中国から渡来してきた
道教とか漢字とかを使い始めたがよ。

おそらくそれを持ってきたがは賀茂氏。

やき、日本語の発祥は土佐にある。

高知県土佐市高岡乙の居徳(いとく)遺跡は3200年前の縄文時代の遺跡。

ここから農耕の存在を示す国内最古の木鍬(きぐわ)が出土してます。

縄文から弥生時代へ移行するときも高知でまず文化融合が起こって
新しい文化が発信されていったがやと思う。

そのときにサの神信仰が生まれたがやないろうか。
縄文の神を平地に降ろす必要があった。

弥生時代への移行と中期からの国風化は
全て四国で行われてると思います。

埋蔵文化財センターの出原さんも
これに近いことを言いよります。
高知の弥生時代


弥生時代から古墳時代への移行。
いわゆるヤマタイコクが封印されて大和ができたのも実は高知。

そこから飛鳥で奈良に飛んで
武家政権が終わるときにも土佐人が近代国家をまるごと作りました。

そして、おそらくこれからポスト近代を作るのも高知でしょう。


かなり話がそれましたが(笑)サの神様。


高知の古代の国名は”都佐”
そうです。サの都ながです。

このサの時代の物語こそ日本神話の題材になったものです。

それを今、取り戻さんといかん。

どうやって取り戻すか?


もちろん、ヨサコイ、ヨサコイです。

ヨサコイは吉佐来いです。

サの神さま、もんてこいよ~という掛け声がヨサコイ・ヨサコイの民謡になりました。

今、一般的に信じられちゅう夜さ来いは違うと思う。
意味わからんし。

伊勢神宮の元宮の籠神社は昔、吉佐の宮と呼ばれてました。
籠神社の元宮は実は高知にある。
都佐が封印されるときに吉佐という名前が封印されて
都佐の籠神社が日本海に持っていかれた。

伊勢神宮、三輪神社、宇佐神宮など、全部の元宮は高知にあるし
奈良で説明できん万葉集の不思議が高知では完全に説明できる。


農村再生はオサバイさんの再生

サの神さまを虫送りで送って
日本海の吉佐の宮に送ったサの神さまを
また太平洋側に呼ぶのが
ヨサコイ・ヨサコイのほんまの意味。

土佐人は弥生時代からヨサコイ・ヨサコイをやりゆうがやき。
歴史が古い。


出雲では10月を神在月と呼ぶ。
それは虫送りで日本海にサの神さま(その他もろもろの神さま)を送るき。
それを春にヨサコイ・ヨサコイで呼ぶ中心地が都佐であったわけ。

そこが倭国の中心地であったということは簡単に結論づけられる。

そこが日出ずる国、鳳の国、ヤマタイコク、大和ということ。


土佐の宗教史 (廣江 清さんの遺稿集)

ふいにでくわしました。

これはすごいですね。

尾崎知事に是非、熟読して頂きたい内容ですね。


このボリュームと洞察はほとんどの場合
地元の貸し出し禁止の図書にしか書いてないような内容です。

Webに掲載しちゅうのはほんとにすごいことですね!
助かります。

今、これほどのことが書ける人が高知におるか言うたら
どうながでしょう?

今のところ自分は知りません。

とりあえず紹介まで。

秦地区の史跡(一)(高知市歴史散歩) 

上の記事に秦泉寺の古代が書かれちゅうがやけど

実はこれはものすごく重要。

日本史を覆すことになるかもしれん素材やね。
まあ、自分は”高知がヤマト”やってことを言いゆうき驚かんけんど(笑)

 秦泉寺廃寺跡IV(高知県埋蔵文化センター)

上の資料の44ページにも指摘されちゅうがやけんど
この秦泉寺のすごいところは古墳時代から白鳳時代に
スムーズに移行しちゅうこと。

秦泉寺の近くには古墳がどっさりあって
普通なら古墳時代から、寺院を中心とする飛鳥時代に移行するのであれば
軋轢は生じるはずで、文化の中心地も変わるはず。

でもこの秦泉寺はスムーズに移行しちゅう。

これは何を意味しちゅうかというと、この地域に住む指導者が
ものすごい知性を持っちょったということ。
(おそらく聖徳太子やろうと思うけど)
土佐山田は五角形の竪穴住居が出ちゅう。
これもまだどういうもんかわかってないね。
土佐山田は蘇我氏と関係が深い場所でもあるし
聖徳太子は蘇我系やし。

高知市と南国市に蘇我と物部と賀茂と秦
これらが密集して遺跡群と寺院跡を残しちゅう地域は他にはない。
これを調べたら畿内がどれだけ記紀史観で捏造されたもんかがわかる。

冗長すぎる遺跡分布と辻褄が合わん遺跡配置。


京都の広隆寺は7世紀の創建とされちゅう。

しかし、広隆寺は古墳時代との関連は指摘できん。

しかもこの秦泉寺の廃寺からは白鳳時代の遺物が出てきちゅう。
白鳳時代と言うたら白鳳の大地震。

ものすごい津波が襲ってきて、土佐でものすごい被害が出たって
日本書紀にぴっと書いちゅう。

しかもこの秦泉寺のあるところは中津と呼ばれちょった浦戸湾最奥の港。
津波が最も高くなって降りかかる場所。

波に飲まれて壊滅したというのは容易に想像がつく。

その後で古墳時代と関連のない広隆寺が創建されちゅう。

どう考えても高知が先。

聖武天皇が全国に国分寺の建立を命じたのは741年。

この秦泉寺のずっと後のこと。


奈良には土佐という地名もある。

飛鳥時代に土佐人が移住したそうな。
それもそのはず、白鳳の大地震で巨大津波を経験したら
もうこんなとこに住むのはやめちょこうと思うやろう。
都を置いちょったら国が潰れると思うやろう。

やき、南に山脈が存在する奈良盆地を選んだ。
土佐の津波は全部、南から来るきね。


壬申の乱はこの白鳳の大地震で土佐が壊滅したことを
隠すためにクーデター説を捏造したがよ。

現に壬申の乱架空説は最近、真実味を帯びてきちゅう。
土佐では蘇我も物部も仲良かったわけやし。

奈良では飛鳥時代以前の日本書紀に合致するような遺跡が全然見つかってない。
全ての遺跡が”~だろう”という推測。

見つかるはずがない。
飛鳥時代以前には奈良に都はなかったがやき。

奈良という地名は単に”国”を表す呼び名。
埼玉に奈良という地名もある。

西の田村遺跡群、東の居徳遺跡群、そして中央のこの秦泉寺廃寺跡
これを真剣に偏見と洗脳にとらわれずに洞察したら
土佐がヤマトっていうのは誰でも見えてくると思う。

奈良とか京都っていうのは、どでかい遺跡とか古墳とかあるけんど
中身がまるでない。
過去との接続とか生活感とか。

巨大前方後円墳とか、纒向遺跡もそう。

それに引き換え、高知の遺跡はものすごく本質的。

全ての遺跡の配置に理由がある。

浦戸湾最奥に巨大寺院ができるのは納得がいく。

寺院の前には必ず池がある。
浦戸湾は巨大な池、こんな地形はどこにもない。

東には賀茂氏の土佐神社。
北のせりあがった山々には豊富な水と台地上の平野がある。


これに関連することは『土佐邪馬台国について』(けんちゃんの今すぐ実行まちづくり)
でも少し触れました。

高知の人にはもっと歴史に興味を持ってもらいたい。

なんとなく住みゆう自分の土地には
ものすごい歴史が眠っちゅうがやき。



下記の土佐邪馬台国のイラストは土佐町のぽっちり堂の川村圭子さんに描いて頂きました。

3519bb45.JPG川村さんご夫妻もコミュニティー構想を持っていらして
かんなりシンクロしました。
リゾナンスしました(笑))

コミュニティー構想の全国版はリゾナンスにUPしてますが
地方の村側とのリンクは今回が初めてです。

村と言うても土佐町は生活必需品はなんでも揃う町です。



56754c80.JPG

 妻の母の実家がここやき、結構知っちょります。

 ご夫妻の田舎暮らしに対するスタンスも
私たちと同じような感じで 良かったです。

自分たちも100%自給自足は望んでなくて
半農半スピをやりたいと思ってます。



19f18d63.JPGそのためにはインターネットは欠かせませんし
文化的施設、最低限のインフラも欠かせません。

土佐町付近はえいですね。

邪馬台国ランチとか神社ツアーとか田舎暮らし体験宿とか

かなりえいと思います。


1836b06d.JPG
おきゃくをマクロビでやってほんものの”土佐のおきゃく”いうて
やるのもえいと思う。
酒を飲むことだけがおきゃくやないし。





あと、衣食住に関して、食はそのマクロビでえいとして
衣は麻関係で結集させていったらおもろいと思います。

養蚕の復活もせんといかんと思います。
(植生の幅がせばまっちゅうらしいです)


住はもちろん土佐の木材を使って

とにかくアートにしあげればえいがやないでしょうか。

陶芸とか染物とか、とにかくこの竜の背構造線で
ある程度、完結する経済をつくっていけばえいと思う。

できればブロック経済にするために通貨を替えたほうがえいかも知れん。

価値が高まったら民間企業が土地を買い占めるき
(関東の圏央道付近は浅ましい陣取り合戦が繰り広げられゆう)
政治も高い意識を持っちょかんといかんと思う。


物部村から仁淀川町まで山間部を扇型につなぐ
竜の背のような構造線はこじゃんと重要。

ここでの横の連携が強化されたら
都市型の文明に対抗できうるものが生み出されると思う。

高知県民にとって都市部とはほとんど高知市しか意味しない。

それを取り囲むように竜の背構造線を持っちゅう高知は
恐ろしく素晴らしい地形。

北嶺の文化は横の連携を強め
県庁に頼らない経済を生み出していかんといかん。

『山間部には林業しかない』
と言わず、竜の背には様々な文化的遺産が残っちゅうわけやき
それを活かして外貨・移住者の獲得を推進していかなくてはならない。


都市の論理に靡いている限りは都市に隷属するしか道はない。


なぜ竜の背には古来より様々な移住者が根付いたがか?

それは竜の背が古来より豊かな土地
もしくは重要な土地であったからに違いない。


そのことを見直し、皆がその価値に気づくことによって
高知は活性化していくのではないかと思う。

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