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《日本語のルーツ「土佐弁」》 ★感嘆詞⇒げに まっこと お~の たま~ あっぽろけ しもうた ばっさり やまった なんちゃあ いうたち ★代名詞⇒あて あし おまん おんしゃ ★名詞⇒いられ どくれ もがり いちがい おらんク おまんク ひとんク あしんク あいちゃぁんク ちゃりす ほげす てんくろう くそじんま ごくどー ひいとい ようだい ばいあい まちまい いこじ いごっそう はちきん わかいし わりことし ★副詞⇒しょう こじゃんと どだい たまるか たいちゃ びっしり ぎっちり ぼったり ばっつり ぼっちり ちっくと しゃっち ざんじ しゅっと めっそ ひっしかっぱ ひがち さいさい ★形容詞⇒へごな のかな へすこい ひやい ぬくい みぞい しわい いそしい えずい やりこい ちんな たっすい したらこい むつこい たいそい めんどい あやかしい むつい またい かあくろしい ばばひい およけない とろこい ほうやくな しんよい ★動詞⇒ひせくる びちくる ぞぶる まぎる ちゃがまる たれもつる たごる ねぶる りぐる かやる のうがわるい ほたえる そばえる たつくる うまえる えぜる ロイつく えつくる さらばえる ほりこかす はりまわす めった いぬる ぞ~くそわるい しのべる くるめる ばぶれる いこる ゾンゾンする しゅんじゅう こたう ★語尾⇒ちゅう にゃあ ちや ぜよ じゃいか やき じゃき ★活用例:こじゃんと ぞ~くそわるい(私は非常に気分が悪い) ・ちっくと待ちよってや!今からざんじいんでしゅっと来るき(ちょっと待っててね、今からすぐに家に帰って、それからまた来るから) ・さいさい来てや!(暇があったら酒の肴でも持って、いつでも飲みに来てね)
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親戚から『郷土の不思議集』ばっすい南国市史-十話-というものが送られてきましたので、ちょっと中身を読みますと面白いことが書かれていまして、その中に土佐条里制のことが書かれていましたので、私もまた書いてみたいと思います。


ばっすい南国市史にも書かれているように、南国の条里制の起源というのはおそらく平城京が成立する以前のものであると私は思います。

1昨年、私も、南海道と推定される古代道路跡が発見された士島田遺跡の現地説明会に行っていたのですが、あの道路は南海道ではなく、土佐の古代条里制の跡だと思います。

といいますのは、その古代道路跡をまっすぐ伸ばしますと船岡山にあたります。船岡山と言えば京都でも重要な位置を占める山です。そしてその横に吾岡山、そして物部川を挟んでニギハヤヒ伝説のある神岡山。あきらかに何かあるでしょう。

しかも田村遺跡は弥生最大級の遺跡です。

ただ、土佐の条里制には京都、奈良とは違う特徴があります。それは道路が南南西に伸びている点です。


それがなぜかと言えば

平安京の四神と都市計画について(玄武の会)

を参照して頂ければおわかりになると思います。


土佐で興った初期大和朝廷が、朝鮮半島経由の北伝文化と黒潮経由の南伝文化、そして日本にもともと存在した先住民族文化が衝突して興ったと何度も書きました。

それをこの土佐条里制でも証明することができます。
(条里制というよりは条竜制ですが、ここでは便宜的に条里制とします)

つまり北伝とは”四神の風水都市”であり、南伝とは”琉球のグスク都市”です。

それらがせめぎあって日本初の条里制都市国家が、東西南北に四神を配置しながら南北ではなく、南南西に道路が振った形で造られたのです。


南南西に道路が振っているのは、つまり竜です。グスクもシュメール由来の竜信仰が強いため道路が曲がっています。

蛇を絵に描いて頂ければわかりますが、蛇をまっすぐ描く人はあまりいないと思います。直線は蛇や竜、うなぎなんかにおいても死を意味すると思います。それがグスクの都市計画です。

都城は生きていなければならないので、土佐秦氏は朱雀大路を西に曲げたということになろうかと思います。
(琵琶湖は南西に流れる瀬田川によって大阪湾にまで注いでいるので天智朝まではこのような都の造りを理解するグループが朝廷内で力を持っていたということだと思います)

七星剣が伝承されている旧幡多国高知県南西部の一之宮神社の内堀には今でも○○龍が祀られています。
通常であればイチキシマヒメが祀られているような場所です。奈良で後期大和朝廷が成立した時に土佐南西部はあまりにも遠いため、つぶし込みを免れたのだと考えられます。今でも北斗七星を主祭神として祀ってる神社も結構、ありますし。。。鎌倉で最も古い龍口明神社もこの系統です。



話を元に戻しますと”土佐高賀茂大社-田村遺跡-七ツ淵”がハハキ(竜木)の方角で並んでいます。

この造りを持っている地域は香長平野はもちろんのこと、完全な大王級の参道を持つ徳王子地区や蘇我赤兄伝承がある安芸地区です。

南南西とは逆の丑寅の方角というのは、土佐から見ればサの神が抜けるサヌキの方角、淡路/琵琶湖の方角なので聖なる方角といえば聖なる方角です。乾の方角は朝鮮半島ですし、未申は古代秦王国、琉球の方角です。

そう考えると古代土佐においては東西南北というよりも、丑寅/辰巳/未申/乾の方角のほうが大事であったのかもしれません。


しかし、この南伝の文化が北伝文化と融合した邪馬台国文明というのは、奈良で北伝文化のみが力を持つことによって急速に力を失っていきました。それと同時に賀茂氏も歴史の表舞台からは姿を消し、一言主が奈良から土佐に流されたという辻褄の合わない神話が幅を利かせるようになったのだと思います。

仕上げは長屋王の骨が土佐に流されることによって、南伝文化の永久封じ込めに、ある程度成功したのだと思います。

しかし、明治初頭に明治天皇は即位の礼の時に四国から崇徳天皇の御霊を京都に帰還させたのでした。



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2011年4月 高知県室戸市尾崎海岸で第二回尾崎祭りが開催される予定です。
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馬楽さんが今月、桑名に行っちょったみたいやけんど、自分も桑名の多度大社に行ってました。

桑名と土佐の古代をちょっと調べてみたけんど色々と出てきました。

ずーっと今まで書いてきた土佐と美濃の関係、これが※元正天皇※というキーワードで解かれていきます。

元正天皇が養老という元号を定めたがは、養老の滝に魅せられたき。養老山地の最南端の多度山に多度大社があり、そこが桑名。


養老元年には越前秦氏の秦澄(たいちょう)が白山三馬場を開いちゅう。同じ年に京都の愛宕神社も役小角とともに開山しちゅう。つまり元正天皇は修験道とも秦氏とも深い関係にあった。

長屋王は元正天皇のいとこで骨が土佐に流されている。


元正天皇の母親が元明天皇で、その母親が蘇我倉山田石川麻呂の娘。

蘇我倉山田石川麻呂の兄弟に蘇我赤兄がおる。そう高知県安芸市・安芸氏の祖先とされる蘇我赤兄。


そう、つまりは、長宗我部氏が桑名氏(四十八家)を引き連れて土佐にやってきたという話はまんざらでもなくて蘇我氏秦氏の強力タッグの激震地として古代から土佐と桑名は密接な関係があったということ。


つまり美濃斉藤氏の支流・石谷頼辰(いしがい よりとき)が山崎の合戦後、元親の家臣になったりしたのは、古代蘇我氏つながりだったのです。だから長宗我部氏。

甲斐武田氏が土佐にやってきて宗我部を名乗ったのも、土佐が蘇我氏の大本家であるという認識があったからやろうと思う。古代波多国の国造は天韓襲命で、その前が蘇我大王。土佐国唯一の前方後円墳が宿毛にある。曽我山古墳


熱田と多度の結びつきも強い。織田信長が藤原信長をしたためたがは熱田神宮。

天武天皇に神刀を献上させられたがは土左大神。


『土佐物語』には、斉明天皇が後の天智天皇と天武天皇を引き連れて土佐の朝倉に逗留した様子が描かれている。土佐にはその伝承があるし斉明天皇の陵もある。


つまり、織田信長と長宗我部元親の争いは天智天皇と天武天皇との争いに遡ることができる相当深い隠喩がある。


やはり天智天皇の都は白鳳の大地震で土佐沖に没した黒崎の宮か。


そうすれば壬申の乱時に取った天武天皇側の不自然な行軍が自然なものになるし、土佐二之宮・朝倉神社周辺の伝承も辻褄が合う。


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石谷重信とは一体、何者ながやろうか。息子が香我美町徳王子の徳善(とくぜ)城主であった公文正信の養嗣子になっちょります。

徳王子いうたら前回元親と龍馬をつなぐミノで書いた、古代から栄えた熱帯ジャポニカの古代都市。公文いうたら公文書を扱いよった古代からの有力氏族。その公文氏に養嗣子を入れられる石谷重信とは誰?

3 土佐中央部の古社と奉斎者(古樹紀之房間)にはかなりおもろいことが書かれちゅう。

確かこの前、馬楽さんが言いよったような気がする。

石谷重信は、細川氏の庶流・天竺氏の家臣であったらしいき、藤原氏となんらかの関係があったやろうと思う。
古樹紀之房間には、小村神社の神職が公文氏であったとも書かれちゅう。末裔に公文式創始者の公文公さんが出ちゅうき、日本書紀や古事記、はたまた風土記を編纂させられた皇室直属のブレーンやったがやないろうか。



土佐藤(土佐の藤原氏)と言われた土佐七雄の大平氏が入ったがは高岡郡蓮池。

子孫の大平弾正は、元弘の変で配流された後醍醐天皇『ウィキペディア(Wikipedia)』の皇子・尊良親王『ウィキペディア(Wikipedia)』をかくまっちゅう。それほど藤原系の血が濃かったということ。後醍醐天皇の奥さんも、母親も藤原氏やったき。

本能寺の変まで続く藤原北家の内紛は既にこの時に始まっちゅう。

大平国雄が外港の宇佐から堺に大船を往来させて、貿易の利を占め、富強やったというき驚き。

ほんで尊良親王の第二皇子・基良親王は二条良基の養子になっちゅう。二条良基いうたら一条兼良のおじいちゃん。奥さんが土岐頼康の娘やき、この時、既に藤原北家の皇室テクノクラート『一条氏・土岐氏』の土佐・美濃タッグができちゅうわけです。

やき、おそらく石谷重信と石谷頼辰(いしがい よりとき)はつながっちょって、山崎の合戦後・長宗我部に仕えたが決して偶然やないと思う。


①大平国雄がただならぬ京との皇室パイプを持っちょったこと

②石谷頼辰の土佐下向は、土佐の神職・公文氏とのパイプがあってなされたものであり、そのつながりはもっと古い時代に遡ることができる


これを考えると、夏草の賦『ウィキペディア(Wikipedia)』の時代考証がむちゃくちゃなことがわかる。夏草の賦の中で土佐は非常に遅れた野蛮な地域で、元親の妻・奈々が土佐に下向する時、アフリカのジャングルにでも行くかのように書かれちゅう。

それと現在まで続く明智光秀逆臣論というがは、全くの間違いでもある。藤原姓は天智天皇にもろうたもんであって、天皇の警護である藤原氏がこともあろうに帝に弓を引くとは何事かと光秀が代表して藤原信長に諭したがが本能寺の変の引き金であったがやないかと思う。

もっと哲学的にいうたら、藤原氏とは何ぜ?なんのための戦いで?という深遠なテーマが室町・戦国期に持ち上がってきたがやないでしょうか。これはおもろいことに幕末期にも武市半平太を通して出てくるがよね。両方に共通するがは夷敵襲来(元寇・黒船)というキーワード。


元寇から日本を救ったがは神風。

黒船から日本を救いつつあるがは、神風特攻隊。

ほんで、しなね様は風の女神。


さらに中臣鎌足が藤原姓をもろうたがは白村江の戦いで唐・新羅軍に敗れた6年後の死の直前。さらにさらに1年間の神風を起こしたがは現代の藤氏長者・細川護熙氏『ウィキペディア(Wikipedia)』細川氏を取り巻く氏族と土佐の関係も、あなどれん。


新たな夷敵・宇宙人を日本に呼んだ鳩山由紀夫。再びやってくるとそれを警護するの問題。



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”元親と龍馬をつなぐモノ”のことを昨日書きましたけんど、自分的にはもう少しいじくって”元親と龍馬をつなぐミノ”という風にしたいと思います。

元親と龍馬をつなぐモノとして、全然関係ないように思われますが、山内家も重要です。山内家も光秀と同様、美濃の出身で、家康に取り立てられて土佐にやってきます。

吉田東洋が山内家の遠い親戚やったき、重用されたなんていうお話も宅間館長からありましたが、土佐は古くから南向きの内湾を持つ『美濃・尾張・三河』や『相模・武蔵』とこじゃんと密接な関係があります。

この謎を解くがが”黒潮海人族”であり、アテナイの文化を享受する以前にフェニキアの海人族の文化が根づいちょったがですね。

このアテナイのギリシャ・ローマとフェニキアは淡路島によく似たシチリア島の領有権を巡って衝突するわけですが、どちらにも渦潮が存在します。

日本神話がなぜ、淡路島から始まるかは、ギリシャ・ローマとフェニキアの関係を調べたら半分くらい理解できます。

土佐と美濃、相模の深いつながりは、実はその頃から始まっちょって伊豆の制海権を握っちょったとされる悪神・天津甕星は常陸でヤマト朝廷に討伐され、美濃付近の両面宿儺も、そして土佐の八面大王も、次々と帝政ローマの帝国主義思想によって滅せられていきました。


ここまで考えて初めて、なんで元親・信親親子が色白・長身・美男子で秦の始皇帝の末裔を公言しよったかがわかってくるがやないかと思います。

中国はあまり公にはしませんが、秦の時代の人夫の中に白色人種が紛れ込んでおり、少なくとも秦が共和制ローマの影響を受けちょったことは間違いがないわけであり、それから数百年後にはネストリウス派も唐に根付いたわけやき、現代人が考える以上に地中海沿岸と極東との宗教意識や文化レベルにはほとんど格差がなく、西洋・東洋という価値観が出てこんほど東と西の文化融合は深いものであっただろうと思います。


そういうイメージを沸かさんようにしちゅうのは、”進化論”や”大航海時代”という西洋の間違った学問であり、それらを糺すためにも”元親と龍馬をつなぐミノ”の風を土佐から起こしていかないかんと思います。


これが学術的に何を示すかというたら、日本の文明の形成には朝鮮半島経由と黒潮経由の2つの文化伝播ルートがあったということ。

お米雑学にも書かれている通り、米の伝播ルートである朝鮮半島経由の温帯ジャポニカと黒潮経由の熱帯ジャポニカは、平安時代頃まで混在して栽培されていたそうなんですね。

街づくりカフェ・街カフェTVの藤島さんは、この2つの伝播ルートを仏教に焦点をあてて北伝・南伝と呼んじょりますが、自分はお米の伝播『ウィキペディア(Wikipedia)』にこじゃんと興味があります。高知の二期作はおそらく、ものすごく古い起源を持っちゅうと思います。

朝鮮半島経由のほとんどの先進文化が温帯ジャポニカとともに日本に入ってきましたが、じゃあ一体、熱帯ジャポニカとともに日本に入ってきた文化はなんやったが?というところですね。

お米雑学の中でも言及されちゅう高知の登呂遺跡と言われる下分遠崎遺跡からは熱帯ジャポニカが出てきちゅうがです。それだけならまだしも下分遠崎遺跡がある香我美町は都の造りをしちゅうき、さあ大変ということながです。

正規の日本史では朝鮮半島経由の文明から日本人は文明を享受して律令国家を形成していったとされちゅうき、熱帯ジャポニカの連合国家があったらいかんがですね。

結果を先に言うたら、結局、朝鮮半島経由の温帯ジャポニカ文化は最終的には帝政ローマの帝国主義を文明の極限として完成されたがですけんど、黒潮経由の熱帯ジャポニカ文化の最終形態は、共和制ローマ・フェニキア女神崇拝の連邦制連合国家を極限としちょったということながですね。

それが日本海の越前秦氏を祖に持つ織田信長と黒潮の土佐秦氏を祖に持つ長宗我部元親の深い深いイデオロギー対立の裏側ながですね。

この問題は、日本という地政学的見地から見た根本的問題でもあり、帝政の本能(絶対王政)共和制の本能(一君万民)、この2つが象徴的に衝突したがが、本能寺の変ということになろうかと思います。


さらには、神道で用いられる柑橘類は明らかに南方系であり、魏志倭人伝に記された邪馬台国の植生も明らかに南方系のものながです。

また、五男三女八王子の筆頭・正勝吾勝勝速日天之忍穂耳『ウィキペディア(Wikipedia)』にも代表される勝男(カツオ『ウィキペディア(Wikipedia)』)は、黒潮を北上する回遊魚であり、日本神話が太平洋側からできたことは明らかであり、神社建築の鰹木『ウィキペディア(Wikipedia)』も黒潮文化圏で発生したがは容易に想像がつきます。しかも日本で唯一、天忍穂を冠した神社が香我美町にあるがですよ。八面大王伝説もそこやし。

鰹節は、御饌(みけ)『ウィキペディア(Wikipedia)』においても重要な位置を占めます。

これを総合して考えたら、天武天皇以降、あるいは菅原道真以降、何が封じられ何が力を持ち続けゆうかを想像することはシンヨイことやろうと思います。

沖縄と高知の宗教文化がつながったら、即、邪馬台国を意味するき、温帯ジャポニカ文化圏の人たちやアメリカ人の方たちはこじゃんと都合が悪いわけです。

米軍はどういたち日本の南伝ルートを切っちょかんといかんがです。石油においても文化においても。文明の起源とされるシュメールの文化をバビロニア・フェニキア経由で多くを輸入し文明の根幹に維持し続けた日本国に原爆を落としたとあっては、アメリカ自体が悪の枢軸国になるからです。

対英米開戦後の最初の作戦・マレー作戦『ウィキペディア(Wikipedia)』を成功させてマレーの虎と言わしめたがが大豊町出身の山下 奉文(やました ともゆき)さん『ウィキペディア(Wikipedia)』。南方系ルートを開くがはどういたち土佐、もしくは熊野しかない。

結局、高知は南国土佐やき、その気候から性格が沖縄とか南方系の人たちのオープンさ・明るさにシンクロするわけやき、どういたち京に最も近い南方系の急先鋒として攻撃したりされたりという立ち回りをせんといかんがです。損な役回りやけんど仕方がない。

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先日、土佐学協会主催の”元親と龍馬をつなぐモノ”という座談会に出席しましたが、その中で長宗我部の大河ドラマを実現するためには、明智光秀を中心にしたストーリーを展開する必要があるという話がでました。

これはほんまにそうで、街づくりカフェ・街カフェTVの藤島さんが展開しゆう”鳥なき島の蝙蝠”は、長宗我部元親と織田信長という戦国2大イデオローグの思想的対立の中で様々なストーリーが描かれています。

その2大イデオローグの橋渡しになったのが明智光秀であり、信長が四国征伐を決定した時点で、土岐氏・一条氏という藤原北家のテクノクラート群と対立することになったがです。

信長は藤原北家のヒエラルキーの中で下層の出身でしたから土岐氏・一条氏をアンシャンレジームに位置づけ、源平交替思想で吊るし上げる予定でしたが、結局、信長ひとりでは帝(みかど)を取り巻く秦氏から連綿と続く原始キリスト教集団のヒエラルキー結束を打ち破ることができませんでした。信長の最大の敵は藤原北家のヒエラルキーであり、その中心人物が本能寺の変時の関白であった一条内基です。

だからこそ信長は実力主義を採用しちょったわけです。日本における革命は、帝(みかど)・実力主義・源平交替思想、この3つでいつでも成し遂げられます。信長の失敗の本質は帝(みかど)を軽視したことで、武市半平太の失敗の本質は、源平交替思想を持ってなかったことです。龍馬は全部持っちょりました。


話を戻すと、一条内基のバックに長宗我部元親と明智光秀がおったがですね。2人の接点は秦氏の原始キリスト教であります。そして2人をつなぐ氏族は越前秦氏と土佐秦氏。信長も越前秦氏を先祖に持ちます。この2つをつなぐのは、草薙剣でもあります。土左大神が675年に天武天皇に神刀一口(草薙剣)を献上した時から、本能寺の変は始まっちょったというても過言ではありません。

信長がこの一派であったことは安土城を見ればわかります。今川義元を破る戦いの前に草薙剣を所蔵するとされる熱田神宮へ藤原信長という名をしたためています。

信長が革新的なキリスト教寄りの思想を持っちょったという一般的な捉え方は少し違うちょって、藤原北家自体が元々、そういうカラーであったと考えるのが自然でしょう。秀吉が関白に就任することによってその藤原北家のカラーを全て封印し、信長だけがキチガイじみた革新者というイメージを植えつけることによって、秀吉の源平交替作業は完了したがです。


信長は武田を破った後にこともあろうに今まで味方についちょってくれた藤原北家の近しい親戚たちも討ち取ることを決意したがですね。長宗我部元親は信親の名づけの時に、信長に日本の分割統治を持ちかけて連邦制の同盟を結んじょったわけですから、一方的にその同盟を破棄するがは明らかに帝国主義ですよね。四国征伐とはそういう事件です。

これが本能寺の変までの思想史的な流れであると思います。


”元親と龍馬をつなぐモノ”で配布された資料の中には、坂本世津夫さんの資料が含まれちょりましたが、坂本さんも美濃斉藤氏や美濃土岐氏にご興味があるらしく、市・学・官で本気で長宗我部を掘り起こす体制が整いつつあると思いました。

『本能寺の変 四二七年目の真実』を書かれた明智さんも安住さんのラジオに出演されたりして、より一層、追い風が吹きゆうような感じになってきちょります。この裏に歴女の存在があるというがやき、これは驚きですね。

歴史をつぶさに調べていったら、本能寺の変の裏には、秦氏(原始キリスト教)の天皇制という日本のロストワールドが見えてくるがやけんど、秀吉が天下統一を成し遂げて、完全なる情報統制を実施した前と後とでは全然違う日本がある、ということをひょっとしたら歴女の方たちは知っちゅうのかもしれませんね。

その秀吉の情報統制の中で原始キリスト教を彷彿させる色白・長身・超美形の長宗我部信親は暗殺されることになるがやけんど、長宗我部を復興させるということは土佐波多国にあった古代・秦王国を復興させるということでもあるがですね。

結局、これは大逆事件の捉え直しでもあり、天皇制に対する意識変革であり、皇国史観からの脱却でもあるがですね。

やき、長宗我部に関わることは日本を根底から揺るがす”日本を洗濯してしまう”事柄であるわけです。

それが結局、これから実現されるであろう道州制とも深く関わっちょって、長宗我部の問題は単なる歴史問題ではなくて、どちらかというと政治的な問題になってくるがやないかと思います。


冒頭で紹介した街づくりカフェ・街カフェTVの藤島さんが展開しゆう”鳥なき島の蝙蝠”の中でも、長宗我部元親(連邦制のイデオローグ)vs織田信長(帝国主義のイデオローグ)という話もでてきちょって、この問題は、古くは邪馬台国(連邦制)vsクナ国(帝国主義)、最近では自由民権運動(連邦制)vs国家神道(帝国主義)のように、日本史の中で常に出現する永遠のテーゼながですね。


この問題を積極的に検証することによって、昭和の戦争の失敗の本質も捉え直すことができ、日本人が再び未来を取り戻すためのきっかけでもあるがですね。

地上の生命は、土から生まれ土に還るわけやき、死につつある日本人が土佐に還ってくるがは必然であろうと思います。

あとは土佐人の知性だけにかかっちょります。土佐人にイデオロギーがなかったら面白くない。酒飲んで議論してイデオロギーを構築していったらひっとり変わっちゅうと思います。日本まるごと、、、

イデオロギーというもんは、突然あらわれるもんじゃなくて、密な人間関係、そこから生まれる議論、そしてそれをスムーズに進行させる潤滑油としての酒がないとだめで、これは全部、土佐の根本の文化ながですね。やき、土佐がすごいとか偉いとかいう問題ではなくて、こういうフランスのような文化が強烈にあるがは日本でも高知だけながやき、そっから日本が変わっていくというがは、足し算よりも簡単な合理的な方程式ながですね。

なんでも結果には原因があって、なんで高知県人のひとりあたりのアルコール消費量が全国一であるかというたら議論好きという原因があるがです。じゃあ、その議論好きが何を話しゆうかというたら社会の様々な問題ながです。これは古代ギリシャの民会『ウィキペディア(Wikipedia)』に起源があります。

女神崇拝・民会・直接民主制・哲学というキーワードを持つアテナイの文化は、土佐と同じです。アテナイから西洋哲学の根本を為すソクラテスやプラトンが輩出されていくのですが、土佐からもたくさんの哲学者が輩出されちょります。

哲学とは、すなわち”議論”であり、”酒”ながですね。



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土岐山(やまとの部屋)

高知県日高村に土岐城がありました。土岐氏は戦国土佐の歴史に密接に関わりますが、おおまかに言いまして、鎌倉・室町期を通して北関東の藤原秀郷流、新田氏系、甲斐武田氏、美濃土岐氏に関わる人たちが土佐にたくさん流れてきています。

この流れは単に、中央政界から地頭のような立場で流れ着いた、南北朝の動乱でどさくさにまぎれてやってきた、というようなもんやなくて、黒潮海人族の文化がまずベースとしてあって、その糸をたぐって皆、あっちこっち移動しよったがやないかと思います。

源氏が海人族の末裔やったというがは最近、オカルトの方面でもまことしやかにささやかれちょって、熱海の海底に沈んじゅう港湾は鎌倉幕府が使用しよったというところまで研究が進んできゆうらしい。それぐらい鎌倉幕府の実体は、まだ明らかじゃないということ。

源頼朝の父・源義朝『ウィキペディア(Wikipedia)』がなんで愛知県の知多半島の野間に埋葬されちゅうかを考えたら源氏と黒潮は、はっきりとつながってくる。野間は東日本と西日本をつなぐ廻船で栄えた街。

そこで落ち武者狩りに会うがは、なんらかの深いメタファーがある。源希義は、頼朝挙兵時に土佐で討伐された。

源為朝『ウィキペディア(Wikipedia)』の琉球王家始祖説もおもろい。ここにも源氏と黒潮というメタファーが横たわっちゅう。


土岐氏は清和源氏の流れになるらしいけんど、その起源はかなり古く、魏志倭人伝に出てくる都支(とき)国の末裔ではないかと思う。

伊都国は、北九州から高知県南西部(伊豆田)⇒高知県中央部(伊都多)へと後退し、伊豆国まで東遷している。これはもろ加茂氏の東遷ルートであり、迦毛大御神がなんで力を失っていったのかは、出雲神話が力を持ち始めたことと密接な関わりがある。


土岐とは、土を分けるクナト(岐)の大神という意味であり、三河一之宮・砥鹿神社の砥鹿ともかなり近い意味を持つ。

黒潮海人族にとって内湾を持つ平野こそ都にふさわしく、土佐湾・伊勢湾・相模湾しか彼らが拠点とできる場所はない。

関東と土佐のつながり、美濃と土佐のつながりは、この文脈でみていくとかなりおもしろい。

一条兼良は、斎藤妙椿の招きで美濃におもむき、文明5年(1473年)には『ふぢ河の記』を執筆していますし、その長子・一条教房は土佐国幡多荘に下向している。これが土佐一条氏の始まり。けんど土佐国幡多荘からは聖徳太子の懐刀である七星剣が出ちゅう。幡多荘は皇室の単なる荘園ではない。皇室を作った秦氏・賀茂氏の元々の出元、『随書』に記された秦王国は、まさにこの幡多荘。

幡多荘にある延喜式内社・高知坐神社の高知はコウチやなくてタカチ。高知は天皇の隠語で、高い所からしろしめすという意味。万葉集にも出てくる。これがハツクニシラスという初代天皇をあらわす称号につながっていったがは想像にかたくない。

一条氏は藤原北家であり、そこに日本海海人族(海部氏・越前秦氏)も入ってくる。織田信長は越前秦氏のキリシタンやし、光秀もおそらく秦氏でキリシタン。そして長宗我部も波多国秦氏のキリシタン。

美濃斉藤氏・美濃土岐氏・信長・光秀は藤原北家一条氏でつながっちょって、『本能寺の変』時の関白は一条内基。やき、これは藤原北家キリシタン秦氏の内紛ということになる。


クナト(岐)の大神は、日本古来のサエの神と習合したサルタヒコでもあり、サルタヒコを奉祀しよったがは秦氏。

とにかく土岐氏は古い氏族であり、皇室と深い関係にあるがは戦国期に始まったことやなくて、弥生時代後期にまで遡ることができると思う。

おそらく都支国は、香川県丸亀市の土器川付近やと思う。



土岐氏に関しては、本能寺の変 「明智憲三郎的世界 天下布文!」の明智さんが詳しい。


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最近、ひまわり太郎さんが浦戸湾七島の記事を書かれよりますが、『浦戸湾七島』知りませんでした。こじゃんと重要です。

[2443] 竹島のてっぺん - 2009/12/23(Wed)

[2444] 竹島の全貌 - 2009/12/24(Thu)

[2445] 洞ヶ島探検 - 2009/12/25(Fri)

綿密なフィールドワークがおもしろい。

[1889] JRの高架から比島を眺める - 2008/06/17(Tue)

上記記事から『浦戸湾七島』を列記しますと、大島・葛島・田辺島・洞ヶ島・竹島・玉島・比島です。

ちなみに伊豆七島は大島・利島・新島・神津島・三宅島・御蔵島・八丈島が一般的です。

この中で大島・利島・新島を神格化した伊豆最古の神社に何度も調査に入っておりまして、伊豆の古層の信仰に三体妙見信仰が横たわっているのを発見しました。



オンチャンも記事にされちゅうように変な木 - 嶋宮神社(南国土佐へ来てみいや)、3女神を祀る三体妙見が高知に存在したがは確実で、土佐と伊豆の関係は、はるか古代に遡ることができます。


つまり、浦戸湾七島に存在する神社群は、もともと各個独立して発生した信仰の場所やなくて、巨大な信仰体系の中から合理的に生まれてきた土佐に発生しちょった王権の爪あとやということができると思います。


3女神を祀る北九州が大和朝廷と深く関わちょったこと、そして、伊豆最古の神社が三体妙見信仰を持っちゅうこと、この両者をつなぐ位置にある土佐にそれらを超越する巨大信仰の爪あとが残っちゅうことを分析したら、明らかに土佐の古代が、朝廷によって完全封印されたことが理解できます。

むしろ逆に、島が神格化された古代において、内湾に多くの島を持つ土佐に王権が生まれんかったということを証明することのほうが困難を極めるでしょう。

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「長宗我部を語る会」

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(先月はNHKの取材クルーが来ちょりました)          ↑歴史談義を語る馬楽さん

【日時】12月9日(水)午後7時から
【場所】高知市はりまや町3-20-1北街ビル2F

     街づくりカフェ・ゆうあい工房

【お問い合わせ】090-1003-1503
     お問い合わせは上記連絡先のマスター藤島氏まで♪     

【内容】小浜亭馬楽氏による講談(20分程度)
     講談後はわきあいあいのフリートーク
【参加費】300円(ドリンク付き)
【その他】近隣に100円パーキングあります

歴史に興味のある方もそうでない方も、ぜひ一度参加してみてください。

小浜亭馬楽氏→「土佐物語」を中心に豊富な歴史談義を語る新進気鋭の土佐講談師
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永源寺 - 土佐藩家老・乾氏の菩提寺
(南国土佐へ来てみいや)

おんちゃんのフィールドワークが、かなり深いところまで潜水してこじゃんと楽しい。
 

おんちゃんが書かれちゅうように、山内家は美濃土岐氏や美濃斉藤氏と密接な関係があって、不思議な縁がある。戦国時代の元親の夫人は、美濃斉藤氏の支流・斉藤利三の妹。この斉藤利三は、明智光秀とともに本能寺の変を主導しました。

その兄弟・石谷 頼辰(いしがい よりとき)は山崎の合戦後、元親の家臣になっています。美濃と土佐の土岐氏つながりは、かなりの歴史があります。

さらに遡ると一条氏というキーワードも出てきて、甲斐源氏武田氏ともつながってきます。
詳しくは→土佐武田氏(過去記事)

板垣退助の血筋も初めて土佐に流れてきたわけではなく、既に香宗我部氏として甲斐武田の一族が土佐の重要な武士団に成長しちょりました。

高知県内の仁井田神社に新田義貞が祀られちゅように、土佐では新田氏との交流もありました。武田氏の祖・武田信義の五男が甲斐武田を継ぐわけですが、その五男・信光は新田氏といとこです。


武田信義の嫡男が一条忠頼で、甲斐源氏武田氏が鎌倉幕府の脅威やったき、甲斐武田の嫡男系統が土佐に流されたということながです。

ただ、これもたまたまというか、一条忠頼はおそらく土岐・一条系の血も入っており、土佐はその系統の宝庫でもあるき、鎌倉時代の島流しの通例も『同族は同族の元に』という「鬼は外・福は内」的思考回路があったがやないかと思うわけです。

こう考えると、武田勝頼が土佐に流れてきたがも筋が通る話であり、私たち日本人は今まで間違った歴史観を持っちょったということになると思います。

つまり、中央集権的思考回路は明治以降に国家主義が台頭するにつれて、人工的に作られたものであり、明治以前はどこかの土地が日本の中心であるという感覚は日本人にはなかったものと思われます。

江戸が将軍の都であるとはいうても、それぞれの地方は自活しよったわけであり、参勤交代というシステムがなければいつでも政治的・経済的に独立できる状態やったわけです。

その自立性を失わせたがが、明治の国家改造であって、明治以前の日本を知るためには、明治期の思考回路を超越しなければ本質は捉えれることはできんということながですね。

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