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《日本語のルーツ「土佐弁」》 ★感嘆詞⇒げに まっこと お~の たま~ あっぽろけ しもうた ばっさり やまった なんちゃあ いうたち ★代名詞⇒あて あし おまん おんしゃ ★名詞⇒いられ どくれ もがり いちがい おらんク おまんク ひとんク あしんク あいちゃぁんク ちゃりす ほげす てんくろう くそじんま ごくどー ひいとい ようだい ばいあい まちまい いこじ いごっそう はちきん わかいし わりことし ★副詞⇒しょう こじゃんと どだい たまるか たいちゃ びっしり ぎっちり ぼったり ばっつり ぼっちり ちっくと しゃっち ざんじ しゅっと めっそ ひっしかっぱ ひがち さいさい ★形容詞⇒へごな のかな へすこい ひやい ぬくい みぞい しわい いそしい えずい やりこい ちんな たっすい したらこい むつこい たいそい めんどい あやかしい むつい またい かあくろしい ばばひい およけない とろこい ほうやくな しんよい ★動詞⇒ひせくる びちくる ぞぶる まぎる ちゃがまる たれもつる たごる ねぶる りぐる かやる のうがわるい ほたえる そばえる たつくる うまえる えぜる ロイつく えつくる さらばえる ほりこかす はりまわす めった いぬる ぞ~くそわるい しのべる くるめる ばぶれる いこる ゾンゾンする しゅんじゅう こたう ★語尾⇒ちゅう にゃあ ちや ぜよ じゃいか やき じゃき ★活用例:こじゃんと ぞ~くそわるい(私は非常に気分が悪い) ・ちっくと待ちよってや!今からざんじいんでしゅっと来るき(ちょっと待っててね、今からすぐに家に帰って、それからまた来るから) ・さいさい来てや!(暇があったら酒の肴でも持って、いつでも飲みに来てね)
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表題のテーマを説明するとき裏側に存在する

高知の無限とは何か?を説明することによっても解は同じになる。

表題の解は非常に回りくどいが、後者の解はいたってシンプルなものである。

江戸時代まで日本人は持続可能な無限の生き方しか知らなかった。

それを無理に捨ててなければ、それが〝東京の限界〟に対する強烈なアンチテーゼになる。


それが2割の土佐人の生き方・哲学ということになる。


つまり、明治時代の日本人が修正したかった、あるいはGHQが徹底的に排除したかった循環型の思想哲学、大和の3点支柱の思考方法、支離滅裂の無限さについてもっと追求してみる価値はある。


西洋の文明が限界を迎えたのは、その哲学的思考にある。


だからと言って、東洋思想が正しいというような安易な結論には当然、達しない。


東京の限界と高知の無限がアウフヘーベンすることによって、新たな時代が幕を開けるのである。

従って、高知へのUターン者が高知の無限の本質を知る・体現していなければアウフヘーベンなど出来るはずがないのである。
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結局はお金、結局は、大企業。結局は、資本主義、結局は大都市、都市化、高速道路、飛行場。と考える東京を中心とする中央集権戦後資本主義にぶら下がった8割の方の高知県人とつながっても面白くないのは当然である。

高知に移住して来る人たちは東京に限界を感じ移住して来ているにも関わらず、成長のベクトルを東京、つまり戦後資本主義にロックオンしている人間と話してもおもろい訳がない。

なぜ、高知がおもろいのかというと、戦後資本主義の発展に乗り遅れたから。これは結果であって、原因ではない。原因は、全国的に戦後日本人は資本主義思想に飲み込まれたが、残りの2割の土佐人は、それには飲み込まれなかったのである。それは単に情報が少なかったということではなく、知的レベル、思想レベルで戦後資本主義の不完全さに対抗し続けたのである。


それを可能にしたのが、酒であり、おきゃくであったのは至極当然な成り行きである。


生来の土佐人はとにかくしつこい。人生は金ではない、と言い始めたら何年も同じことを言っている。お金がなくなっても言っている。まるで、武士は喰わねど高楊枝の世界である。恐らくモノノフの発祥も土佐ではなかろうかと思う。だがこういう人間が面白い。なんでそういう思考回路になるのか?予想をはるかに超える行動原理を持っている。

土佐人のロボットを作るのは不可能である。支離滅裂であり、むちゃくちゃだからである。

ジェームス・ジョイスがあちこちを歩いている。しかし、そこには、深い哲学がある。

日本国が2.0の社会に移行する時、起動力を必要とする。起動力とはモーターを一回回すだけでなく、二回、三回と連続して回す力のことである。わけのわからない熱狂。起動力に論理性は必要ない。

トランプ大統領は、2割の方の土佐人にいそうなタイプである。支離滅裂だが起動する力を持っている。


東京から地方に移住して地域を変えてやると意気込んでも地域は絶対に変わらない。上から目線でやればやるほど、モーターは空回りする。


高知の場合は、いかにこの2割の土佐人と深く繋がるかが成功の鍵となる。残りの8割は当然、起動すらしない。起動する根拠を持たないからだ。一人でどれだけ深く土佐に潜水できるかだ。2割の土佐人も常に1人だ。だからこそ、おきゃくと返杯がこの上なく楽しくなるのである。
先日、Oさんと話したのだが、移住者と現地の人をつなぐUターン者がもっと機能しなければならないと。

もともと、高知はまとまりのない、自由な個人の集団だが、主張は違ってても飲みに行きたがる傾向と心性は共通している。

つまり、高知市がコミュニティの同調圧力が比較的低い都市とは言っても、その伝統には深い理由がある。

日本人が自由を連想するとき、そこには、西洋人が教会や信仰でつながった上での自由は連想しえない。キリスト教をベースとする西洋社会でいうところの自由とは、つまり、キリストの根幹を揺るがす自由はない。裏を返せば、キリストを認めてさえいれば、どんな自由も認められるのである。どのような社会でも、当然、このようなひとつ以上の制限がある。


それが限りなく少なければ自由社会になり、制限が多ければ多いほど独裁社会となる。


では、日本で制限が極限に少なくなり、自由が最大化された社会とはどのようなものか?


これを考えると、なぜ日本人が西洋の〝自由と民主主義〟を理解できないのかを知ることができると同時に日本人にとっての〝自由〟とは何かを知ることもできるのである。


ここで高知における〝自由と制限〟について考えてみよう。


これは、飲みの席で最も顕著である。それぞれの主張は認めても返杯を拒むのは認めない。

この文化を考えていくと面白い。返杯を大量に飲んでも主張が弱い場合も良しとされない。

つまり、自由への圧力とコミュニズムの圧力が同時に働いていることになる。

〝けんど、おまんそう言うてもわしはそう思わんぜ〟と顔を真っ赤にして唾を飛ばしながら〝おきゃく〟の席で激論する光景、高知の人間なら一度は目にしたことがあるだろう。

それが偶然の産物ではなく、必然の産物であったとしたら、そのルーツはなんなのか、ということになる。主張を半ば強制的にさせて酒の返杯によって同志意識を植え付け、唾と踊りで融和させていく。

しかも、その主張が老若男女、最終的に政治的なものになっていくのはなぜなのだろうか?

これこそまさに多くの異文化の渡来人が住み着き、大同団結して大和國を作った日本の国家始原そのものではないか。

現在の高知には、王という存在はいないが、古代、王は酒であり、酒は王であった。酒解神というのもそれである。愛媛県の一ノ宮に祀られるオオヤマツミである。


高知の山間部に行けば行くほど、酒で死ねたら本望、という思想が濃くなってくる。これは、自分の命よりも酒解神が自分の命の運命をも決めるという運命論に似ている。ギリシャでいうところの運命の三女神に命を預けるということである。


これらを考えていくと色々なものが見えてくる。日本人が認識するところの〝自由〟とは、コミュニズムが強力に働く下での制限された〝自由〟を意味する。つまり、西洋人が宗教的政治的権威から逃れるために作った〝自由と民主主義〟・〝法と近代国家〟などの形而上の概念は明治時代の日本人ならまだしも〝問う〟ことを忘れてしまった戦後の日本人の腑に落ちるわけがないのである。


明治時代の日本人も150年後の日本人の知性レベルがこれほどまでに低下するとは予想だにしなかっただろう(しかし、白洲次郎は見抜いていた)。


ここで何回か紹介もしたが、世界を放浪してなぜ高知にたどり着くのか、という原因の中に〝結局、俺は日本人だから〟という諦めにも似た言葉がある。自分もヨーロッパに長いこと行っていて帰りの飛行機で日本人の集団に出くわした時の安堵感は異様なものだった。思考ではこれほどまでに戦後の日本を軽蔑しているにも関わらず、民族としての肌感覚は安堵をもたらしたのである。


日本人として他者との繋がりが楽しく濃いところに住みたい、と同時になんでもかんでも主張したがる西洋的な人格になってしまった自分を放棄できない、を満たす土地は、日本では、ここ高知しかない。


話しを最初に戻すと高知のUターン層は、大学卒業後と定年後という2層しかない。意識高い系の中間層は是非、帰還すべきと考える。8(中央集権にぶら下がった組)の方ではなく、2(常識を覆してる系)の方につながらないと高知は面白くない。→高知ニッパチの法則
野根山街道の視察に行ってきました。



 
奈半利のローソンをちょっと北に入ったところに野根山街道の高札場の看板。やき、ここが野根山街道の起点。



ちょっと行ったら番所があって道は狭いので、自転車道には最適



少し田んぼを抜けて山のほうに行ったら、野根山街道の看板。ここから本格的な野根山街道。


 

途中はこんな感じ。今や歩く人はほぼいない感じ。それやったら逆に整備して観光地にしたほうがえい。

 

高知市から野根(東洋町)までは、しまなみ海道と同じくらいの100kmほど。夜須ー安芸間は既に自転車道路があるき、あけぼの街道から接続してもえい。
 
東洋町まで自転車で行って、泳いで(あるいはサーフィンして)帰ってくる。これはアツい。


 


東洋経済オンラインのように


正しいことを情報発信しているようで

潜在的に中央集権志向であり

1流と2流を分けたがる優性思想の中央メディアに充分に注意する必要がある。



都市生活で承認欲求のはけぐちを求めて

右に傾いては左を罵倒し

左に寄っては安倍政権を批判する


それができなくなれば

1流と2流をジャッジメントし

中央集権構造を暗に支持する。

全く持って支離滅裂である。



このメンタリティの問題は

極度の競争状態およびストレス状態に起因しているにも関わらず

生活の質を落とせないという、本当にばかげた理由から

誰かをバカにして生きることが恒常化し

正しい判断ができないところにある。



このような人間が集まる、例えば東京という都市は

既に”終わりの始まり”であるにも関わらず

未だに中央主権幻想にしがみついているのは

その場所が、もはや日本を知性的にリードする場所ではなく

原発がんの病巣になっていることを意味する。



Webで気に入らないことを見つけては

連隊を組んで集団で攻撃するというような

小バエのような自分たちの行為に

何ら知性的に振り返ることができないというのは

反知性主義が発酵し、ステージ4に突入していると言える。



このような状態から抜け出すためには

地方に善玉菌を植え付け、そこを発酵させ

都市の悪玉個人主義菌を撃退するしか方法がない。



もし仮に都市が清廉・潔白であるというのであれば

東洋経済オンラインの優性思想の紹介記事に反発しなければならない。

高速道路、飛行場、新幹線を作れば地域は発展するのだ、と未だに妄想をする人たちがいる。その妄想を利用し、増殖拡大してきたのが他でもない自民党である。その麻薬にも似た誇大妄想は、地方に原発を始めとする様々な巨大な箱モノの設置を可能にした。

そのような認識を持った世代や地域が事前・事後に関わらず『 復興 』を行うのは無理である。

なぜならば、復興の前提には精神的自立、つまり、その地域に住むひとりひとりの人間の精神的自立、それが地域の自立へと接続していなければならないからである。

事後復興は、精神的自立とそれに接続した地域全体の自立が必要であり、地震によって経済的自立が不可能になった場合に可能となる。

事前復興は、この経済的自立すら可能になった場合を指す。つまり、事前復興とは、中央集権とは完全に決別した完全な independent な状態でなければならず、そうでなければ『 復興 』など訪れることなどあり得ないのである。

行政が今まで戦後ずっと、形式民主主義という偽物の民主主義で市民を騙し続けてきたツケが東日本大震災で明らかになったのである。


しかし、年老いた人間たちは、この構造にすら気づかずに大きい道路がつけば、大きな夢がやってくると期待する。そのような地方が日本各地に無数にでき、最終的にその富を一手に納めたのが東京という中央集権のセンターではないか。地方はどこも勝ってはいない。中央集権や覇権主義、強欲資本主義とは、夢を売り、結果的に夢を買った人間が負けていくグローバリズムのアニマなのである。


幕藩体制下の日本が、なぜ強烈な地域主義を確立できていたのかは、武士の自立心を分析すれば良いだけのことである。原発に依存し、新幹線に依存し、高速道路に依存し、飛行場に依存する。そのどこにサムライスピリッツがあるというのか。町人や商人だけでは、もともと日本は成立すらしていない。

どこかおかしな人間たちが、依存で連帯し、それを政治家が吸い上げる。この戦後精神構造をすぐさま消滅させなければ事前復興も事後復興もあり得ない。


復興があり得ないということは、東日本大震災の20数倍の経済的ダメージが予想される南海トラフ地震後、日本の財政が破綻するのは明らかである。自立のできていない太平洋側の地方が、地震後一斉に政府を相手取り、復興支援予算取り合戦を行う。そんな戦後の悠長なままごとをやっている場合ではない。中東と同様、東京オリンピック後の東アジアは生きるか死ぬかの壮絶な状況となる。



山本有二氏の掲げる『 国土強靭化計画 』なるもの

強靭化しなければいけないのは、国土ではなく人間である。

依存する国民と依存を悪用する政治家

これらがまとめて共依存の関係にあり、日本国の社会資本を食い散らかしている。

開発と称して一体どれほどの破壊を戦後、繰り返して来たのか。



人間が強靭化すれば、自分の土地に自信を持つことができる。

自信を持てば、何が強みで何が弱みかが見えてくる。

その強さをオリジナリティに変えて日々、積み上げていく。いちいち群れる必要はない。

そうすれば原発も高速道路も新幹線も必要のない強靭的な地域ができあがる。これが事前復興であり、それぞれの地域が美しく自立していた戦前の日本への本来回帰でもある。
まだ高知にこんな天才がいたのかと、


年配の人たちは、移住してきた人たちに対して何をやりたいのかがわからない言うパターンもあるが

受け入れる側もそれではだめで。。地域おこし協力隊が勝手にやっている、という思考回路は多くの場合、失礼な話だろう。

若い人たちが夢を持って、こんな山奥に来てくれて、私たちも一緒に何か頑張らなければならない、というのが普通のスタンスだろうと思う。


土佐弁しゃべりゆうのに、この人、高知っぽくない、という人間はいくらでもいる。高知に長年いればそれはわかるだろうけど、移住者の人たちは、それを切り分けできる術がないから可哀想でもある。




ということでMくんと話したEPAのラインを少しまとめてみる。


例えば


ドイツの中山間地域と高知の中山間地域の両方が再生可能な形でグローバリズムに加担せず、豊かに発展していく形とはどういう形か?


おそらく、これは人間関係と同じで、どちらかが他方を支配せず、依存せず、しかも目標は一致しているというナチュラルな相互理解関係の確立だと思われる。
 
 
『 本当の家族は、支配も依存もないがやき 』 新高知家
 
 
それには、同じ問題意識を持っていることが必須で、グローバリズムが結果的に中山間地域を豊かにしないという結論に哲学的に達していなければ不可能である。


つまり、自らの疲弊した地方が、新たなグローバリズムの発信地域として経済発展しても、それは単に第二の東京にしかならない、ということをまず認識できていて、東京とは異なる経済構造を構築し、新たな経済のニューウェーブを自分たちで作っていかなければいけないんだという哲学的境地に至ってなければ、この多国間個人EPAは成功しないのである。


であるから、おそらく提携先は、アメリカかドイツかフランス、もしくはスイスになるだろうと思われる。たとえば、マリーヌ・ルペンの国民戦線は、反グローバリズム・反移民を掲げているから、その第一関門は突破している。ただし、ここから極度なナショナリズムに転ずれば、安倍政権と同じ構造に持っていかれる。


軍事的侵略と移民による侵略はどこが違うのか?


それは攻撃的か平和的かの手段が違うだけであって、結果は同じである。われわれが目指すべきは”平和”でならなければならず、”平和的”手段であってはならないはずである。


手段を理想化できるのはフランス人だけであり、日本人には到底、真似できない芸当である。


100人の日本人村に1000人の中国人が移住してきたとして、日本の文化と伝統が保持されて、経済も発展、万々歳、という言う人がいれば手をあげてほしい。その状態を平和状態と言うならば、監獄の中にいることも同時に平和と呼ばなければならない。文化・経済レベルが近しい集団によってこそ高度な経済発展が為し得るというのは、私たち日本人が中産階級によって高度経済成長を成し遂げたことによって証明されているではないか。



われわれは今、不特定多数の互恵関係構築(グローバリズム)から、世界規模の特定少数の互恵関係構築(グローカリズム)へと進んでいかなければならないのである。


そのために、互いの文化文明・宗教への深い理解が必要であり、当然、言語もクロスオーバーしなくてはならないのである。


これは、これまでの国際化などという概念とは根本的に異なる。国際化とは、全く異なる国家同士が理解・交流するということが前提にある概念である。しかし、奇しくも【グローバリズム】によって、われわれ先進国の国家間差異は、それほど、大きなものではなくなっている。少なくともわれわれ若い世代においては。


【グローバリズム】がここに至るまでの必要悪であったという認識に立脚すれば、スムーズに移行できるのではないか。ジャイアンがいたおかげでわれわれは本当のしずかちゃんを知ったのである。
Pちゃんの”新しい概念”の話で先週から盛り上がってるので、少し掘り下げてみる。


通常、私たちは、損得勘定で経済を判断しているが、”共に経済(新しい概念)”は、他者を活かすためにお金を使うというものである。

昔の日本人は、”金は天下の回り物”として、賢くお金を使うことに長けていたが、いつしか日本人は、アメリカ型資本主義に飲み込まれ、貯蓄搾取型の経済観念を持つに至った。


”与えれば与えられる”の考え方は、古来より、日本人の”生命は循環している”、”その巡りこそが命だ”などの神道的価値観と親和性が高いので、かなり古いものと思われる。


戦中には、”共存共栄”というものがあり、日本経済思想の原点には土佐南学や近江商人の三方良しなどの共に繁栄しようというスタンスが多くある。


それとは違うグロテスク資本主義に陥ってしまったため、これからその資本主義観念を立て直していこうとするものである。そもそも経済とは、「経世済民」の略語であり、済民とは、”民を救う”という意味である。


現在、地域協働学部などが創出され、地方で仕事を創出するにはどうすれば良いか?というテーマがあるが、それはこの”共に経済”をプラットフォームにしなければ成り立たないのではないか。


先に勝ったものが勝ち続けるという現在の強欲資本主義下においては、地方は常に敗者に甘んじなければならない。ヒト・モノ・カネがない地方、山間部において”共存共栄”が基本になるというのは、そこに住まう人ならば、既に知っていることだろうと思う。


この考え方は選挙権にも応用することができ、お金の使い方が繁栄をしてほしい身近なものに為されるならば、その繁栄を保全してくれる人間に選挙権は行使される。つまり、利益誘導、組織票は悉くカットされ、より一層、民主主義が実現するのである。


高知での仕事創出のためには、もちろん都市からの移住ややり方を持ち込むのも重要だが、土着のこの”共に経済”観念を共通認識化し、都市型資本主義との共存共栄を図って、螺旋を描いて経済を大きくしていく必要がある。
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