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《日本語のルーツ「土佐弁」》 ★感嘆詞⇒げに まっこと お~の たま~ あっぽろけ しもうた ばっさり やまった なんちゃあ いうたち ★代名詞⇒あて あし おまん おんしゃ ★名詞⇒いられ どくれ もがり いちがい おらんク おまんク ひとんク あしんク あいちゃぁんク ちゃりす ほげす てんくろう くそじんま ごくどー ひいとい ようだい ばいあい まちまい いこじ いごっそう はちきん わかいし わりことし ★副詞⇒しょう こじゃんと どだい たまるか たいちゃ びっしり ぎっちり ぼったり ばっつり ぼっちり ちっくと しゃっち ざんじ しゅっと めっそ ひっしかっぱ ひがち さいさい ★形容詞⇒へごな のかな へすこい ひやい ぬくい みぞい しわい いそしい えずい やりこい ちんな たっすい したらこい むつこい たいそい めんどい あやかしい むつい またい かあくろしい ばばひい およけない とろこい ほうやくな しんよい ★動詞⇒ひせくる びちくる ぞぶる まぎる ちゃがまる たれもつる たごる ねぶる りぐる かやる のうがわるい ほたえる そばえる たつくる うまえる えぜる ロイつく えつくる さらばえる ほりこかす はりまわす めった いぬる ぞ~くそわるい しのべる くるめる ばぶれる いこる ゾンゾンする しゅんじゅう こたう ★語尾⇒ちゅう にゃあ ちや ぜよ じゃいか やき じゃき ★活用例:こじゃんと ぞ~くそわるい(私は非常に気分が悪い) ・ちっくと待ちよってや!今からざんじいんでしゅっと来るき(ちょっと待っててね、今からすぐに家に帰って、それからまた来るから) ・さいさい来てや!(暇があったら酒の肴でも持って、いつでも飲みに来てね)
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神産み『ウィキペディア(Wikipedia)』

日本神話の神生みの段で

『禊祓と三貴子の誕生』がある

ここに次のような文章が出てくる。

***引用はじめ***
イザナギは、黄泉の穢れから身を清めるために、竺紫(つくし)の日向(ひむか)の橘の小門(をど)の阿波岐原(あはきはら)へ行って、禊を行った。身に着けていた物を脱ぐことによって十二神が生まれた。
***引用おわり***


竺紫は一般的には九州やと言われちゅうけんど全くの間違い。
ほんまは土佐清水、大月、宿毛のへんを昔は竺紫国と呼んだ。

今でもコツクシ、タツクシと言うろう?

ほんでそのひむか(東)の”あはきはら”は
どこかというたら、高知で一番きれいな
”おおきのはま”。

おおきのはまはおそらく古代はおほきのはまと呼ばれよったろう。
もっと前は”おはき”とか”ははき”と言われよったろう。

”ははき”は蛇が寄り付く依代でアラハバキとか
ニギハヤヒ、アマツハハの語源になったもの。

とにかく蛇信仰とか龍信仰、禊、三貴子なんか全部土佐清水周辺で
起こっちゅう。


ここでかの有名な、アマテラス、スサノオ、ツクヨミが生まれたが。



足摺岬の地形は鰐が口を広げた八尋鰐の地形。

かの有名な因幡の白兎『ウィキペディア(Wikipedia)』の舞台もここ、足摺岬。

出雲に全部とられたけんど、白ウサギは白山のこと。

淤岐島(おきのしま)は沖の島。



日本神話に出てくるタカチに穂があるタカチホは
東の日の出と西の日の入りを見る事ができる。

タカチは高知と書く。
万葉集にはたかしらす(高知らす)と良く出てくる。
これは天皇と密接に関わる言葉。

宿毛には高知坐神社という神社がある。
こうちじゃなくてタカチ。
しかもここの祭神は都味齒八重事代主神。
これは八尋鰐のこと。

これが高知市内の一宮神社へ行って
事代主になって一言主になったが。
ほんでその次にアジスキタカヒコネ神になったがよ。

全部、辻褄が合う。

ほんで、畿内へ進出した時に高市に変わった。


タカチのもともとは足摺岬周辺のこと。

くしふる高千穂も九州に奪われた。

龍馬が新婚旅行で九州に行った時に
剣を引っこ抜いたらしいけんど(笑)


とにかく、高知の南西部は皇祖の都やき
高速道路も飛行場も、ましてや
アメリカ軍なんかとんでもない。

保護せんとほんまにバチが当たる。

神話の開拓で南西部は経済活性化をしていかんといかん。

それぐらいの観光資源が埋もれちゅうがやき。


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タチバナ『ウィキペディア(Wikipedia)』

上記ページにこういう文言がある。

***引用はじめ***
文化勲章は元々であったが昭和天皇が「文化は永遠である」と言い、
咲いて散る桜ではなく、常緑の橘を勲章にしたという。
***引用おわり***

昭和天皇の認識もさることながら
古来より日本では永遠を表すものの代表として
橘が重用されてきました。

ですので、橘と密接に関係しちゅうところが
邪馬台国と密接に関係しちゅうということですね。

常緑樹ですね。

日本神話では磐長姫がこの橘に相当しますが
此花咲耶姫が桜に相当します。

大和朝廷は国民を欺くために桜を用います。
散って果てるのが人間の最高の姿であると。

それは日本神話の時代から
邪馬台国を封じ込めた時代から使われ続けてきたロジックです。

国家神道もそういう勢力によって創作され
現在の自民党の強行採決政治も同じ流れにあります。

日本では野放しにしておくと何度でもこの勢力がよみがえります。

橘の現在の有名な産地は徳島ですね。
徳島も邪馬台国に入っちょったき、それは至極当然なこと。

でも橘を食す文化と神さまを表すように使い始めた文化は高知の南西部から始まっちゅう。

倭国の中心には山海川の文化と酒の文化
そして共立の自由思想と平等主義があったことに注目してほしい。
これと橘が共存するのは高知以外にはないろうと思う。

徳島は卑弥呼と密接に関わっちゅうけんど
徳島だけでは邪馬台国全てを説明することは不可能。


***引用はじめ***
『倭の地は温暖で、冬も夏も・生(野)菜を食する。
(倭国は)真珠・青玉を(産)出する。その山には、丹(あかつち)がある。
・薑(しょうが)・橘(たちばな。または、こみかん)
・椒(さんしょう)・みょうががある。
父子や男女による (区)別がない。
人の性(情)は、酒をたしなむ。
盗窃(ぬすみ)せず、諍訟(うったえごと)はすくない。』
***引用おわり***
邪馬台国の会より)


もともと桜はサの神さまの到達を表す手段として高知では認識されてきたけど
そこへたかおかみ・くらおかみを祭祀する賀茂氏が入ってきて
桜が橘とおなじくらいの神格化の対象になってきたがよ。


天皇自身が邪馬台国の祭祀を重視しても
取り巻きがそれを使って国民支配を画策する。
絶対天皇制を使って既得権益を守り続けようとする。

そして自民党とマスコミは
無能と洗脳で国民を愚弄し続けゆう。

しかし、橘である”土佐の自由主義”は
時代が変わってもその泉は絶対に枯れることがない。

やき、気枯れない、穢れない。

物部川も昔は鏡川と呼ばれよったらしい。

高知には鏡川、鏡村、香我美郡(今はないか)
カカミがいっぱいある
これは自分の姿を投影する銅鏡の本質と同じ。

それが偉大なる君、おおきみ制につながっていったがよ。


橘こそ気枯れない常世の国の象徴。

それと鰹木、イサナ(鯨)がつながった高知が
神社発祥の地になるのは必然やろうと思う。


そして岩。

唐人駄馬からつながる高知の巨石文明は
橘信仰を生み出す土台になった。


でもその唐人駄馬の遺跡も高知県庁が破壊した。

今でも高知市内の新堀川を破壊し続けゆう。

善を叫びながら人々を支配し、戦争に導く人間の精神構造は
時代が変わっても同じ。

何かを認識する脳内回路がないということやろう。

橘と桜

この2つは私たち日本人にいろんなもんを投げかける。




難升米『ウィキペディア(Wikipedia)』

土佐の邪馬台国から魏に使いが出されたがですけど
それが難升米さん。

魏から黄幢(黄色い旗さし)をいっぱい持ち帰ってきたがやけんど
高知には『黄旗神社』がいっぱいある。(場所は秘密(笑))
ひとつやふたつやない。

黄幢に関しては下記の方が詳しい。

黄幢って?(猪瀬メモさん)


何回も言うけんど、日本の神社を格付けした平安時代の延喜式は
アメリカの格付け会社がやるような歴史の書き換えと浅薄な思想が根底にある。
本当の歴史は全然違うところにある。


その難升米さんが黄旗を持って帰ってきて
日本のオサバイさん(土佐のサの神祭祀)が
くっついてできたのが、こいのぼり。

高知で最もこいのぼりが盛んなところに黄旗神社がある。

それが八幡信仰につながっていくのも必然の流れ。

宇佐八幡は高知の宇佐を封印するために建設されたがで。
高知の宇佐八幡は今でも天沼矛と猿田彦(天狗)が祭りをしゆう。

高知県土佐市 宇佐八幡宮秋祭り(高知の祭り)

こっちが本家本元やってことは一目瞭然。
高知の宇佐はほんまに”佐”がすごいところ。

貝掘りも有名やし、なんせ仁淀川の河口が近い。
神武東征で出てくる宇佐津彦、宇佐津姫はここの出身やし。

神武は土佐で即位

すぐ南には青龍寺がある。

青龍は魏で使われちょった年号で
ちょうど卑弥呼が魏に使いを送った時の頃の年号。

高知には銅鏡や銅剣を神社で代々継承してきたところが結構ある。

これはかなりすごいこと。
これは明らかにそういう文化的素地があったってことやし
それが高知県全域に広がっちゅうってことは
弥生時代から高知の神社は存在しちょったってことの証。

都左に降り積もった様々な文化

日本最古の神社は三輪神社と言われちゅう。
高知の神社のほとんどがそれよりも古いということは調べたらすぐにわかる。

結局は神話上でも奈良は大国主と少名彦名が創っちゅうし。

その出元は完全に高知。
少名彦名は大洲。

封印は解かれるためにある。

後ろの正面は高知やし。

島本さんが土佐人の物語をブログに書かれています。

土佐人の物語

土佐人の物語2

土佐人の物語3

おもしろいですよ。

高知は古代、都左国、波多国の2つの国がありました。

都左は縄文時代より続くサの神を奉祀するサの都でした。

波多は秦氏を中心とした大陸の新しい宗教や文化を丸ごと持ってきた
渡来人の国でした。

しかし、なぜ秦氏が高知南西部に大量に渡来し国を創っていくのか?

それはもともとユーラシア大陸全域に
ユーラシアの東の果ての島には
龍の形をした日出ずる国があるという認識が広がっていたのでしょう。
(当時は飛行機がなかったから上空から地上を俯瞰できなかったというのは間違いです)

龍信仰を遡ると古代シュメールに行き着きますが
(中国ではない)
その信仰と縄文文化というのは
ものすごく親和性の高いものでした。

イザナギ・イザナミ神話は高知で生まれたもので
特に高知南西部が密接に関わっていることを指摘しておきたいと思います。

しかもそれは唐人駄馬遺跡との連続性が確認できるので
ものすごく正当な縄文時代からの歴史があるわけです。

やき、高知南西部には高速を通したらいかんし
基地も絶対にだめ!開発は絶対にだめ。

そこを目掛けて秦氏は大量にやってきたがです。

基本的に秦氏は宗教的な民族ですが
融和を好む文化的な民族です。

ローマや唐(?)の拡大によって
国を捨てて大挙として日本にやってきたがです。

高知県人の酒好きはこの秦氏の影響も多分にあります。

結局、秦氏は南西部から中心部の秦泉寺に到達し
古代より続く都左の邪馬台国との結合が果たしました。

それが大和です。

シュメールからの渡来人は弥生時代の早い段階で
高知の東部で縄文との結合を果たしました。

それが物部氏です。

高知中部にはペルシャの文化が入ってきて
北辰信仰が縄文の星信仰(七夕)と重なっていきました。
七夕信仰の古い形は高知の西部に残っています。

龍馬は北辰一刀流です。

この他、仁淀川のシリウス信仰は賀茂氏と深く関わり
縄文のオオカミ信仰とくっついていきます。

ヒミコの鬼道とはこのオオカミの霊を呼んだりするものです。
これと中東の獅子信仰が結合して神社の狛犬が生み出されちょります。
神社は高知で生まれてます。

カツオ木のある神社(高知市歴史散歩)
高知市歴史散歩 トンボ信仰
サの神さまとヨサコイ 



坂東 眞砂子さんが今年、鬼神の狂乱という本を出されていますね。
昨日本屋で発見しました。

この中で狗神憑きについて書かれていますが
(今までも色々と狗神については書かれていました)
舞台となっている大豊町付近は島本さんが書かれているように
卑弥呼往還ですね。

大豊町は日ノ御子の裏側に当たりますので
裏卑弥呼と言ってもえい場所です。

チャンネルが合うたら危険な状態になるとは思います。

それだけ高知には磁場が多く存在します。
下手に開発したらいかんし、今まで経済成長できんかったのも
理由があるがです。

しっかりと自然と調和した経済システムを作り上げる必要があります。


長宗我部氏の時代もおもろくて

一領具足『ウィキペディア(Wikipedia)』なんかは
今、高知県民が最も取り戻さんといかん気概やろうと思う。

秀吉の兵農分離とは一線を画す政策やけど
自由・平等の土佐では一領具足は
ある程度、納得がいく体制やったと思う。

司馬遼太郎は土佐の自由・平等主義を
この後の差別から始まったみたいに言よったけんど
それは違うやろうと思う。

既に一領具足に土佐の平等主義が表れちゅう。
単にいくさに狩り出されたというレベルの話やないと思う。

四国征伐『ウィキペディア(Wikipedia)』に関しても
明智光秀を使って信長を本能寺で討たせたのは長宗我部やと思う。

最近では明智光秀の裏に皇族がおったとかいう説もあるけど
長宗我部元親は明智光秀を通して信長と友好関係を保っちょったがやき
光秀にとっては皇族よりも四国の武力のほうが援護射撃勢力としては
頼もしいやろうと思う。

でも秀吉があんなにも早く帰って来るとは元親も思わんかったやろう。
結局、長宗我部元親の天下統一も夢に終わった。

以前、土佐弁レボリューション でも紹介した

土佐人の明確さ
「未公開講演録愛蔵版5 司馬遼太郎が語る日本」週刊朝日より
(ヒューズより)

やけんど、この中に

***引用はじめ***
江戸時代の初めにロンドンでできたアジアの地図があります。日本列島も、今のような形ではありませんけれども、まがりなりにも似たような形にかかれています。四国も似たような形にかかれておりますが、四国の地名は土佐となっています。つまり、土佐だけが四国で有名だったわけですね、ポルトガル人やスペイン人がかつてこのへんまで来てかいた日本地図の原型がいろいろあり、それをロンドンの印刷屋が参考にして刷ったものでしよう。ポルトガル人スペイン人土佐という不思議な土地柄に注目して、土佐しか目に入らなかったのでしようね。
***引用終わり***

とあります。

これに近いだろうと思われる地図がWebにあります。

アジア図(九州大学附属図書館?)

上から2番目の地図(拡大)

四国がTONSAになっちょります。

司馬さんはポルトガル人やスペイン人が土佐という不思議な土地柄に注目してと言ってますが
単に長宗我部が四国を統一する勢いを持っちょった、あるいは成し遂げようとしちょったき
四国を土佐と記述しただけやろうと思います。


この地図の重要なポイントは当時の日本の権力者の力が及んでないということ。
日本の古地図よりも客観性があるということやろう。


いずれにしても高知は
時代の変わり目には絶対、息を吹き返す装置がある。

縄文時代から弥生時代(国内最古の木鍬、最古の戦争跡)

弥生時代から古墳時代(弥生後期の莫大な人口流入、田村遺跡付近)

古墳時代から奈良時代(古墳から秦泉寺へのスムーズな移行

戦国時代から江戸時代(長宗我部元親の一領具足による天下統一)

江戸時代から明治時代(薩長の国家神道に対抗する自由民権運動)


そして、中江兆民、幸徳秋水、山下奉文の思想を総合すると

自由・平等・博愛のリベラル天皇制というもんが見えてくる。

これこそ大和朝廷によって征服された
邪馬台国の後継王朝、合議制のヤマト。


一領具足でヤマト(山台)の価値を守らんといかんやろうと思う。

殿様が尾崎知事らあて、とんでもない。

高知独自の政策をやらん知事が民衆の支持を得るはずがない。

なんか何億もかけて作ったバスターミナルも失敗に終わったみたいやし。
なんぼでも言い訳を考えるやろう。

要は何が失敗したかやのうて
何を成功させようとしたか。

その方向性が打ち出せん人間が
誰かの上に立つなんていうのは原理的に不可能。

土佐人の敵は昔から決まっちゅう。

権力と格差、これだけやろ。


それが秋津が飛び交うオオヤシマ国のヤマト。


高知の文化を世界に発信! 『はりまや橋』監督が高知県知事を表敬訪問
yahooニュース【cinemacafe.net】より

高岡早紀さんが主演に決まったらしいね。

土佐弁しゃべれる~?(笑)

しかし、あのがっかりのはりまや橋で撮影するがやろうか。

この映画をとる監督が「高知の良さ」をどこに置いちゅうのかが楽しみ。

土佐弁をうまく表現できんかったら
高知の魅力は半減するやろう。


先日はイージス艦の問題で色々と書いたけんど
友好と親善が目的なら
こういう文化的な手段で友好を図るべき。


西洋人が大量に高知に来たら
高知とそれ以外の地域の文化の違いに気づくやろうと思う。

歯に衣を着せん土佐の表現におけるメンタリティーは
西洋人と出元が同じ。

紀元前にメソポタミアとかヒッタイト、エジプトの民族が大量に
シルクロードの終点(実は四国)に流れてきて
中東付近での争いと同じ争いがあった。

それらは多民族国家でヒッタイトなんかは
5種類か6種類くらいの言語が使われちょったとか。

表現せんと生きていけん環境やったわけ。

それが高知のしゃべりの根底に眠っちゅう。
これはそれらの文明を取り入れたギリシャ・ローマなんかにも引き継がれた。

そん時の哲学が西洋世界の表現の根本。
実は高知と同じ。
高知以外の地域では縄文とそれらの文化が有機的に結合せんかった。

おそらくマレヒト信仰は黒潮圏の信仰。
沖縄がシルクロードの終点やったら沖縄が倭国の中心になったやろうと思う。

黒潮とシルクロードが出遭う所、それは高知と紀伊半島南部。
でも紀伊半島南部には残念ながら南に向かった広い平野がない。
黒潮に乗った集団が大量に降り立つ肝心の場所がない。
しかし、紀伊半島の山中には黒潮に乗ってきた渡来人が住みよった痕跡はある。

シルクロードと黒潮がぶつかる高知の地形が
どれだけすごいもんであったか、これからはっきりするやろうと思う。



(中国でもそういう本質的に他民族国家の色彩が強い時代があった)


日本のその後は中国の絶対王政が導入されて
大和朝廷が確立されたき
土佐の大和(リベラル天皇制)は封印されたね。


高知の文化を世界に発信したいというなら
土佐大和解禁→土佐ヤマタイコク解禁→土佐メソポタミア解禁
こういう流れがえいと思う。

もちろんその根底にあるのは
マレヒト信仰。それがおきゃく。

日本の文化があらゆる文化を飲み込んでいくがは
マレヒトの信仰があるき。
神道のバックボーンにはこれがある。

マレヒトを巨大な文化として継承してきたがは高知だけ。

縄文、シルクロード、黒潮。

色んな文化が流入してきて融合したのが高知。
やき土佐弁は場所がちっと違うたら言い回しが違うし
イントネーションも違う。

もともと違う言語を持っちょった民族が
土佐弁という共通語を生み出したがよ。
まあ言うたらエスペラント語みたいなやつ。

それが土佐弁、ほんでそれが日本語になったが。
万葉集が詠まれたのは高知。
高知とばっちりわかる詩は消された。
やきあんなに不自然なつくりやし、枕詞で遠まわしに言いゆう。

雄略天皇朝の都は高知やし。


これが高知の良さであって、邪馬台国(倭国)の良さ
ほんで大和の良さ。


なんにもないがやなくて
あることに気づいてないだけ。


そうでなければ、文学者や哲学者が高知からこんなにも多く輩出されるはずがない。

”都落ち”をその理由にする人がおるけんど
それは高知の平等主義と反発する考え方。

むしろ高知にリベラル天皇制の都があって
その都を大和朝廷に乗っ取られたと考えるほうが
高知のリベラルと平等主義、おきゃく、多元的言語”土佐弁”を説明できる。

また古墳時代からスムーズに移行した秦泉寺
その頃、ちょうど京都に広隆寺が。

南国市大そね乙の西野々遺跡は古代の官衙のような建物跡もでちゅうし
比江廃寺跡は比叡山と重なる。

山王権現、日吉大社の出元はここではないかと思う。

秦泉寺、岡豊、香長、野市、土佐山田、赤岡
ここらあたりの古代はあまりにも密集しすぎちゅう。

介良にはUFOも出るし。

第一、三宝山のジェットコースターは有名。




関連記事

日本神話のはじまりは土佐

日本語の発祥は土佐弁?

土佐弁の不思議

大保木村の歴史

こちらも結構おもしろい。
ボリュームがかなりある。

伝承を元に書かれてると思うので
一般に理解されちゅう正史とは全然違うところが多々ある。

どこかは言えんけんど。
この伝承が本物やろうと思う。

高知の人たちが代々受け継いできた伝承も組み合わしていくと
正史とは全然違う歴史が見えてくる。

大和朝廷だけやのうて、明治国家もかなりごと高知を痛めつけて
神社の祭神やらお祭りやらを封印しまくっちゅう。

神仏分離を隠れ蓑にして土佐大和を封印した。

新宮神社のHP

にはものすごく重要なことが書かれちゅう。

万葉集がなんで謎に包まれちゅうのか
十市に行ったら謎が解ける。

土佐日記もここからやき。

日本全国が洗脳されちゅう。
もう隠し通せんやろう。

民衆を支配し続けてきた大和朝廷の歴史ももう終わり。

ほんまの大和が復活するき。


今日はサの神さまの話を。

古代史に詳しい人にとってはサの神というのは
馴染みのある言葉かもしれませんが
あまり興味のない人にはほとんど知られていない神さまやと思います。

ほとんど知られてないけんど
日本人にものすごく関わっちゅう重要な神さま。

サクラのサというのは、このサの神のサ。

クラはいわゆる”蔵”やね。

サの神様が眠る蔵がサクラにはあるがよ。

なんで蔵っていうのかというと
春になって山からサの神様が降りてくると
サクラがいっせいに咲き始める。

やき、サの神様と呼応する何かがサクラの木にはあったと思われちょったがよ。

ほんで田植えを始める。
稲が実って、秋に感謝して北に送り返す。

その頃の認識が今の日本人にもずっと引き継がれちゅう。
蔵と言えば、倉庫みたいなところを連想する。

ほんで”暗い”というのもこの蔵から来ちゅうし
”位”もここから来ちゅう。
蔵は位が高い。

昔は”高い”という形容詞よりも”倉い”という形容詞のほうが
畏れ多いとされちょった。

水の神様で有名な”たかおかみ・くらおかみ”は
くらおかみが奥の院になる。

京都の貴船神社はこの祭神を祀っちゅう。

でもこの出元は仁淀川。

荒倉、高倉、三倉、くらま、横倉
倉神の神社がごまんとある。

これは全国どこを探してもない。

なぜなら、仁淀川がサクラの出元やき。
日本語の発祥は土佐弁

一応、この”倉”と”高”の認識は縄文的な認識やけど
それを表現するときに中国から渡来してきた
道教とか漢字とかを使い始めたがよ。

おそらくそれを持ってきたがは賀茂氏。

やき、日本語の発祥は土佐にある。

高知県土佐市高岡乙の居徳(いとく)遺跡は3200年前の縄文時代の遺跡。

ここから農耕の存在を示す国内最古の木鍬(きぐわ)が出土してます。

縄文から弥生時代へ移行するときも高知でまず文化融合が起こって
新しい文化が発信されていったがやと思う。

そのときにサの神信仰が生まれたがやないろうか。
縄文の神を平地に降ろす必要があった。

弥生時代への移行と中期からの国風化は
全て四国で行われてると思います。

埋蔵文化財センターの出原さんも
これに近いことを言いよります。
高知の弥生時代


弥生時代から古墳時代への移行。
いわゆるヤマタイコクが封印されて大和ができたのも実は高知。

そこから飛鳥で奈良に飛んで
武家政権が終わるときにも土佐人が近代国家をまるごと作りました。

そして、おそらくこれからポスト近代を作るのも高知でしょう。


かなり話がそれましたが(笑)サの神様。


高知の古代の国名は”都佐”
そうです。サの都ながです。

このサの時代の物語こそ日本神話の題材になったものです。

それを今、取り戻さんといかん。

どうやって取り戻すか?


もちろん、ヨサコイ、ヨサコイです。

ヨサコイは吉佐来いです。

サの神さま、もんてこいよ~という掛け声がヨサコイ・ヨサコイの民謡になりました。

今、一般的に信じられちゅう夜さ来いは違うと思う。
意味わからんし。

伊勢神宮の元宮の籠神社は昔、吉佐の宮と呼ばれてました。
籠神社の元宮は実は高知にある。
都佐が封印されるときに吉佐という名前が封印されて
都佐の籠神社が日本海に持っていかれた。

伊勢神宮、三輪神社、宇佐神宮など、全部の元宮は高知にあるし
奈良で説明できん万葉集の不思議が高知では完全に説明できる。


農村再生はオサバイさんの再生

サの神さまを虫送りで送って
日本海の吉佐の宮に送ったサの神さまを
また太平洋側に呼ぶのが
ヨサコイ・ヨサコイのほんまの意味。

土佐人は弥生時代からヨサコイ・ヨサコイをやりゆうがやき。
歴史が古い。


出雲では10月を神在月と呼ぶ。
それは虫送りで日本海にサの神さま(その他もろもろの神さま)を送るき。
それを春にヨサコイ・ヨサコイで呼ぶ中心地が都佐であったわけ。

そこが倭国の中心地であったということは簡単に結論づけられる。

そこが日出ずる国、鳳の国、ヤマタイコク、大和ということ。


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