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三職推任問題(さんしょくすいにんもんだい)『ウィキペディア(Wikipedia)』という勧修寺晴豊が書いた『晴豊公記(天正十年夏記)』という日記の解釈を巡る問題があります。
何が問題になっちゅうかというたら、この日記が本能寺の変の直前に書かれたもので当時の状況がわかる第1級の資料ということで、未だ解き明かされてない本能寺の変の全貌を解く上での重要なキーになりうるもんになるということながですね。
まことしやかに言われゆう本能寺の変の後ろには朝廷内の勢力があったがやないかという説。この日記が当時の朝廷と信長のやり取りを最も詳しく書かれちゅうがですよね。
それぞれの説についてはウィキをみてもらうとして、ここでは土佐から見た解釈をひとつ。
前回、 織田信長と土佐一条家 で書いたように、本能寺の変時の関白は一条内基。本能寺の変の前年には藤氏長者(藤原氏内の最高権力者)になり、関白にまでのぼりつめています。ちなみに信長も藤原信長を自称しているように本来は藤原北家の出身です。
信長の出世スピードを超える勢いで一条内基は関白にまで上り詰めました。
表にまとめますと
一条内基 | 織田信長 | |
1534年 | 生誕 | |
1548年 | 生誕 | |
1554年 | 兄・兼冬の死により一条家本流を継ぐ | |
1558年 | 元服 正五位下 | |
1560年 | 従三位 | 今川義元を桶狭間の戦いで破る |
1565年 | 権大納言 | |
1568年 | 足利義昭を奉じて上洛。従五位 | |
1570年 | 正四位 | |
1573年 | 正二位。土佐に逗留。一条内政(長宗我部元親に養育)の元服に際し偏諱を与える。 | 足利義昭追放 室町幕府崩壊 |
1574年3月 | 従三位参議 | |
1575年春 | ||
同年6月 | 長篠の戦いで武田勝頼を破る。長篠城を防衛した奥平貞昌に偏諱を与える。 | |
同年10月 | 土佐から京都に帰京。内大臣就任。 | 長宗我部信親の烏帽子親になる |
同年11月4日 | 権大納言就任 | |
同年11月7日 | 右近衛大将就任 | |
1576年 | 右大臣就任 | 正三位→内大臣→右近衛大将兼任 |
1577年 | 左大臣就任 | 従二位→右大臣→右近衛大将兼任 |
1578年4月 | 正二位(1月6日)→右大臣兼右近衛大将を辞官(4月9日) | |
1580年 | 四国政策変更 | |
1581年 | 正親町天皇の関白に就任(藤氏長者) | |
1582年 | 従一位 | |
同年 | 本能寺の変 | 没 |
1584年 | 左大臣・関白を辞し、二条昭実に譲る |
信長は一条内基の後を追うかのように昇進していきますが、1578年4月に突然辞任。その後なんの官職にもついてなかったことが問題にされてます。
しかし、よく考えてみると自尊心の高い信長。常に内基の尻を追っかけるような自分に嫌気がさしたがやないでしょうか。信長が全ての官職を辞した後、内基は決められたかのように藤氏長者になっています。宮廷政治で内基に完全に敗北してしもうたがです。
内基が自分の後を人殺しをやって追っかけてくる信長をライバル視しよったことは間違いがなく、晴豊公記が書かれた1582年の天皇の代理「関白」は内基ですから、信長に喜んで冠位を与えるなんてことは、あろうはずがありません。しかも内基のバックには四国統一真近の長宗我部がいるわけですから、四国の武力・関白の権威・明智の裏切りによって信長の息の根を止める勝算はおおありやったと思います。
信長と親交の深かった近衞 前久(このえ さきひさ )『ウィキペディア(Wikipedia)』が、1582年の2月に太政大臣となるが、5月には辞任しています。本能寺の変の1ヶ月ほど前です。信長は1578年に内基との出世競争に負けましたが、その後、近衛家と密通し『天下平定の暁には近衛家に一国を献上する』という約束までしています。前久から太政大臣を譲位させるつもりやったがでしょう。このことを5月に知った内基が激怒し、本能寺の変で信長を討伐したというのが、裏の歴史やと思います。
信長は覇道を目指した超人とかじゃなくて、この部分だけを見たら出世だけを夢見て、皇室のテクノクラートの最高位・関白(藤氏長者)に憧れた一青年だったということがわかります。ただ、鎌倉時代から続く摂関家に一代で肉薄したという点では天才的な才能を持っちゅうと思います。しかし、信長も元は藤原氏であります。同じ藤原北家でありながら家柄だけで官位が決まってしまう世の中に対して贖ったがでしょう。この鬱憤が、家柄ではなく才能で部下を重用するという思想につながっていったがでしょう。
いずれにしても本能寺の変は、藤原北家の内紛(秦氏も絡んでいます)であり、信長最大の敵は藤氏長者・一条内基(そのバックに存在する土佐一条家と土佐長宗我部氏、ほんでそれらと繋がる自分の家臣の光秀・斉藤利三親族)ということやったでしょう。
一条内基が一条氏の次期後継者にしようとした土佐一条氏の一条内政は1580年に24歳の若さで死去しています。内基の兄・兼冬も26歳の若さで死去しています。その後、内基は6歳の若さで一条家本流を継ぐわけですが、五摂家内の藤氏長者を巡る家督相続は壮絶を極めちょったということやと思います。
一条内政の死には信長が絡んだ可能性があります、なぜなら1580年は信長の表立った四国政策変更の年。まず内基の後継者・土佐大津御所内政を亡き者にし、近衛を朝廷に暗躍させる一方で一条家の生命線・四国の切り取りを始め、関白・内基封じ込めの下準備を進めようとしていたわけです。
これに対し内基は、後ろ盾としていた土佐一条氏+長宗我部と政治工作を開始し、信長家臣団内部の一条・土岐系の明智などとも内通し、一条家を守ろうとしたわけです。
信長の四国政策変更は長宗我部と対峙するという意味と一条家との敵対関係をも暗示しちゅうわけです。美濃は元々、一条家と深いつながりがありましたから信長家臣団内部でも騒乱があったわけです。
長宗我部元親の正室は美濃斉藤氏の斉藤利三(春日局の父)の妹なんですから。斉藤利三の兄弟・石谷 頼辰(いしがい よりとき)は、山崎の合戦後、長宗我部元親に仕え、娘は長宗我部信親の正室になった。戸次川の戦いで信親と共に戦死しました。
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