《日本語のルーツ「土佐弁」》 ★感嘆詞⇒げに まっこと お~の たま~ あっぽろけ しもうた ばっさり やまった なんちゃあ いうたち ★代名詞⇒あて あし おまん おんしゃ ★名詞⇒いられ どくれ もがり いちがい おらんク おまんク ひとんク あしんク あいちゃぁんク ちゃりす ほげす てんくろう くそじんま ごくどー ひいとい ようだい ばいあい まちまい いこじ いごっそう はちきん わかいし わりことし ★副詞⇒しょう こじゃんと どだい たまるか たいちゃ びっしり ぎっちり ぼったり ばっつり ぼっちり ちっくと しゃっち ざんじ しゅっと めっそ ひっしかっぱ ひがち さいさい ★形容詞⇒へごな のかな へすこい ひやい ぬくい みぞい しわい いそしい えずい やりこい ちんな たっすい したらこい むつこい たいそい めんどい あやかしい むつい またい かあくろしい ばばひい およけない とろこい ほうやくな しんよい ★動詞⇒ひせくる びちくる ぞぶる まぎる ちゃがまる たれもつる たごる ねぶる りぐる かやる のうがわるい ほたえる そばえる たつくる うまえる えぜる ロイつく えつくる さらばえる ほりこかす はりまわす めった いぬる ぞ~くそわるい しのべる くるめる ばぶれる いこる ゾンゾンする しゅんじゅう こたう ★語尾⇒ちゅう にゃあ ちや ぜよ じゃいか やき じゃき ★活用例:こじゃんと ぞ~くそわるい(私は非常に気分が悪い) ・ちっくと待ちよってや!今からざんじいんでしゅっと来るき(ちょっと待っててね、今からすぐに家に帰って、それからまた来るから) ・さいさい来てや!(暇があったら酒の肴でも持って、いつでも飲みに来てね)
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摂家(せっけ)『ウィキペディア(Wikipedia)』
上の項目にありますが、鎌倉時代以降家格の頂点に立った5家のことで、土佐一条家もこれに当たります。
織田信長は、この摂家になろうと試みますが、本能寺の変で討伐されてしまい、豊臣秀吉は1585年(天正13年)に近衛前久の猶子となり、藤原朝臣秀吉(近衛秀吉)として関白就任を果たしました。
しかし、その子・秀次以降は再び五摂家が摂関の座を独占するようになり、戦前までこの流れは続きます。→将来の皇后たるべき皇室嫡流の正室(すなわち皇太子妃)となるべき者は、皇族もしくは旧摂家(五摂家)の女子に限るという不文律が存在したようです。
大津御所『ウィキペディア(Wikipedia)』である一条 内政(いちじょう ただまさ)「土佐一条氏6代目当主1557年~1580年)は元親に養育されたわけですけれども、この一条内政は、一条 内基(いちじょう うちもと)『ウィキペディア(Wikipedia)』に、名前(内の字)を与えてもろうたがです。
一条 内基(1548年~1611年)は、本能寺の変の時の関白。
摂政『ウィキペディア(Wikipedia)』は、幼少の天皇の場合に置く職であり、関白『ウィキペディア(Wikipedia)』は、語源は天皇の言葉に対し、関(あずか)り白(もう)すことから来ているように、「天皇の代理人」なわけです。
その天皇の代理人である関白が、本能寺の変の9年前である1573年~7年前の1575年まで土佐に逗留し、大津御所の元服時に名前を与えちゅうわけです。(一条内政=16歳くらい・一条内基=26歳くらい・長宗我部元親=35歳くらい)
大津御所は元親(1539年~1599年)に養育されました。上に大津御所元服時のだいたいの年齢を書きましたが、おそらく元親が内基土佐逗留時に内政への偏諱を積極的に働きかけよったがやないかと思います。
ちなみに長宗我部元親が織田信長に中島可之助を派遣して信親の『信』をもろうてきて(1575年10月)、信長と不可侵条約を結んだ時は、一条内基は土佐におりました(もしくは去った直後)。
つまり元親は35歳頃に摂関家になろうとしよったわけであり、織田信長よりもかなり早い段階で戦国のならわしを創った可能性すらあります。
ちょうどその頃、京都では信長が京都を制圧し足利義昭の追討を行ったわけですき、幕府が瓦解して信長による大政奉還が成立しました。
1575年に内基は京都に帰って内大臣に就任、1576年には右大臣、1577年には左大臣へと昇進しちょります。同年1577年には織田信長が内基の直後に右大臣『ウィキペディア(Wikipedia)』に就任しています。
下記は正親町天皇朝の歴代右大臣
*****『ウィキペディア(Wikipedia)』*****
九条兼孝 1574年 - 1576年 正親町
一条内基 1576年 - 1577年 正親町
織田信長 1577年 - 1578年 正親町
二条昭実 1579年 - 1584年 正親町
今出川晴季 1585年 - 1595年 正親町、後陽成
*****『ウィキペディア(Wikipedia)』*****
しかし、信長の最高位は右大臣であったらしく、正親町天皇が抵抗して信長の昇進をさせんかったき、信長は摂関家になるために、かねてより親密であった誠仁親王を即位させようとしましたが結局、本能寺の変で立ち消えになりました。
やき、信長と一条内基は宮廷内では、こじゃんとライバルで、内基の裏には元親が隠れちゅうわけやき、本能寺の変は土佐一条家と藤原信長を名乗る織田信長の藤原北家同士の家督相続争いでもあったわけです。(信長のルーツは越前秦氏と越前藤原氏)
その争いに、はやいとこ食い込んで、戦国の摂家になろうとした元親は非常に政治的な天才であったとも言えると思います。
信長はイクサには強かったけれども宮廷政治に失敗して討伐されるわけですけれども、秀吉は両方に強く、最終的に関白に就任します。ここらへんの政治的手腕(宮廷政治家を黙らせる)を元親は一目置いて、秀吉の配下に入ったがないかとも思います。土佐一国に減封された後でも、全国に散らばる五摂家の力を後ろ盾にしたら、2度目の本能寺を起こすことは可能やったはずですから。織田信長は少なくとも藤原氏の傍流やき、血統は悪くはないけんど秀吉は百姓の出で関白就任なんかとんでもない、当時はそう思われちょったと思います。
おそらく秀吉は、バテレン追放令を含めた政治的画策で、秦氏や藤原氏などの天皇家に近い古代氏族の封じ込めに成功したがやないかと思います。
この政治的画策は徳川家康にも引き継がれ、土佐の政治的地位はどん底にまで降下させられるわけです。その鬱憤が幕末に爆発するがですけんど、未だに幕末や自由民権運動の深いところの正確な探求はされてないき、これからですね。
上の項目にありますが、鎌倉時代以降家格の頂点に立った5家のことで、土佐一条家もこれに当たります。
織田信長は、この摂家になろうと試みますが、本能寺の変で討伐されてしまい、豊臣秀吉は1585年(天正13年)に近衛前久の猶子となり、藤原朝臣秀吉(近衛秀吉)として関白就任を果たしました。
しかし、その子・秀次以降は再び五摂家が摂関の座を独占するようになり、戦前までこの流れは続きます。→将来の皇后たるべき皇室嫡流の正室(すなわち皇太子妃)となるべき者は、皇族もしくは旧摂家(五摂家)の女子に限るという不文律が存在したようです。
大津御所『ウィキペディア(Wikipedia)』である一条 内政(いちじょう ただまさ)「土佐一条氏6代目当主1557年~1580年)は元親に養育されたわけですけれども、この一条内政は、一条 内基(いちじょう うちもと)『ウィキペディア(Wikipedia)』に、名前(内の字)を与えてもろうたがです。
一条 内基(1548年~1611年)は、本能寺の変の時の関白。
摂政『ウィキペディア(Wikipedia)』は、幼少の天皇の場合に置く職であり、関白『ウィキペディア(Wikipedia)』は、語源は天皇の言葉に対し、関(あずか)り白(もう)すことから来ているように、「天皇の代理人」なわけです。
その天皇の代理人である関白が、本能寺の変の9年前である1573年~7年前の1575年まで土佐に逗留し、大津御所の元服時に名前を与えちゅうわけです。(一条内政=16歳くらい・一条内基=26歳くらい・長宗我部元親=35歳くらい)
大津御所は元親(1539年~1599年)に養育されました。上に大津御所元服時のだいたいの年齢を書きましたが、おそらく元親が内基土佐逗留時に内政への偏諱を積極的に働きかけよったがやないかと思います。
ちなみに長宗我部元親が織田信長に中島可之助を派遣して信親の『信』をもろうてきて(1575年10月)、信長と不可侵条約を結んだ時は、一条内基は土佐におりました(もしくは去った直後)。
つまり元親は35歳頃に摂関家になろうとしよったわけであり、織田信長よりもかなり早い段階で戦国のならわしを創った可能性すらあります。
ちょうどその頃、京都では信長が京都を制圧し足利義昭の追討を行ったわけですき、幕府が瓦解して信長による大政奉還が成立しました。
1575年に内基は京都に帰って内大臣に就任、1576年には右大臣、1577年には左大臣へと昇進しちょります。同年1577年には織田信長が内基の直後に右大臣『ウィキペディア(Wikipedia)』に就任しています。
下記は正親町天皇朝の歴代右大臣
*****『ウィキペディア(Wikipedia)』*****
九条兼孝 1574年 - 1576年 正親町
一条内基 1576年 - 1577年 正親町
織田信長 1577年 - 1578年 正親町
二条昭実 1579年 - 1584年 正親町
今出川晴季 1585年 - 1595年 正親町、後陽成
*****『ウィキペディア(Wikipedia)』*****
しかし、信長の最高位は右大臣であったらしく、正親町天皇が抵抗して信長の昇進をさせんかったき、信長は摂関家になるために、かねてより親密であった誠仁親王を即位させようとしましたが結局、本能寺の変で立ち消えになりました。
やき、信長と一条内基は宮廷内では、こじゃんとライバルで、内基の裏には元親が隠れちゅうわけやき、本能寺の変は土佐一条家と藤原信長を名乗る織田信長の藤原北家同士の家督相続争いでもあったわけです。(信長のルーツは越前秦氏と越前藤原氏)
その争いに、はやいとこ食い込んで、戦国の摂家になろうとした元親は非常に政治的な天才であったとも言えると思います。
信長はイクサには強かったけれども宮廷政治に失敗して討伐されるわけですけれども、秀吉は両方に強く、最終的に関白に就任します。ここらへんの政治的手腕(宮廷政治家を黙らせる)を元親は一目置いて、秀吉の配下に入ったがないかとも思います。土佐一国に減封された後でも、全国に散らばる五摂家の力を後ろ盾にしたら、2度目の本能寺を起こすことは可能やったはずですから。織田信長は少なくとも藤原氏の傍流やき、血統は悪くはないけんど秀吉は百姓の出で関白就任なんかとんでもない、当時はそう思われちょったと思います。
おそらく秀吉は、バテレン追放令を含めた政治的画策で、秦氏や藤原氏などの天皇家に近い古代氏族の封じ込めに成功したがやないかと思います。
この政治的画策は徳川家康にも引き継がれ、土佐の政治的地位はどん底にまで降下させられるわけです。その鬱憤が幕末に爆発するがですけんど、未だに幕末や自由民権運動の深いところの正確な探求はされてないき、これからですね。
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