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徳王子いうたら前回元親と龍馬をつなぐミノで書いた、古代から栄えた熱帯ジャポニカの古代都市。公文いうたら公文書を扱いよった古代からの有力氏族。その公文氏に養嗣子を入れられる石谷重信とは誰?
3 土佐中央部の古社と奉斎者(古樹紀之房間)にはかなりおもろいことが書かれちゅう。
確かこの前、馬楽さんが言いよったような気がする。
石谷重信は、細川氏の庶流・天竺氏の家臣であったらしいき、藤原氏となんらかの関係があったやろうと思う。
古樹紀之房間には、小村神社の神職が公文氏であったとも書かれちゅう。末裔に公文式創始者の公文公さんが出ちゅうき、日本書紀や古事記、はたまた風土記を編纂させられた皇室直属のブレーンやったがやないろうか。
土佐藤(土佐の藤原氏)と言われた土佐七雄の大平氏が入ったがは高岡郡蓮池。
子孫の大平弾正は、元弘の変で配流された後醍醐天皇『ウィキペディア(Wikipedia)』の皇子・尊良親王『ウィキペディア(Wikipedia)』をかくまっちゅう。それほど藤原系の血が濃かったということ。後醍醐天皇の奥さんも、母親も藤原氏やったき。
本能寺の変まで続く藤原北家の内紛は既にこの時に始まっちゅう。
大平国雄が外港の宇佐から堺に大船を往来させて、貿易の利を占め、富強やったというき驚き。
ほんで尊良親王の第二皇子・基良親王は二条良基の養子になっちゅう。二条良基いうたら一条兼良のおじいちゃん。奥さんが土岐頼康の娘やき、この時、既に藤原北家の皇室テクノクラート『一条氏・土岐氏』の土佐・美濃タッグができちゅうわけです。
やき、おそらく石谷重信と石谷頼辰(いしがい よりとき)はつながっちょって、山崎の合戦後・長宗我部に仕えたが決して偶然やないと思う。
①大平国雄がただならぬ京との皇室パイプを持っちょったこと
②石谷頼辰の土佐下向は、土佐の神職・公文氏とのパイプがあってなされたものであり、そのつながりはもっと古い時代に遡ることができる
これを考えると、夏草の賦『ウィキペディア(Wikipedia)』の時代考証がむちゃくちゃなことがわかる。夏草の賦の中で土佐は非常に遅れた野蛮な地域で、元親の妻・奈々が土佐に下向する時、アフリカのジャングルにでも行くかのように書かれちゅう。
それと現在まで続く明智光秀逆臣論というがは、全くの間違いでもある。藤原姓は天智天皇にもろうたもんであって、天皇の警護である藤原氏がこともあろうに帝に弓を引くとは何事かと光秀が代表して藤原信長に諭したがが本能寺の変の引き金であったがやないかと思う。
もっと哲学的にいうたら、藤原氏とは何ぜ?なんのための戦いで?という深遠なテーマが室町・戦国期に持ち上がってきたがやないでしょうか。これはおもろいことに幕末期にも武市半平太を通して出てくるがよね。両方に共通するがは夷敵襲来(元寇・黒船)というキーワード。
元寇から日本を救ったがは神風。
黒船から日本を救いつつあるがは、神風特攻隊。
ほんで、しなね様は風の女神。
さらに中臣鎌足が藤原姓をもろうたがは白村江の戦いで唐・新羅軍に敗れた6年後の死の直前。さらにさらに1年間の神風を起こしたがは現代の藤氏長者・細川護熙氏『ウィキペディア(Wikipedia)』細川氏を取り巻く氏族と土佐の関係も、あなどれん。
新たな夷敵・宇宙人を日本に呼んだ鳩山由紀夫。再びやってくる帝とそれを警護する藤の問題。
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元親と龍馬をつなぐモノとして、全然関係ないように思われますが、山内家も重要です。山内家も光秀と同様、美濃の出身で、家康に取り立てられて土佐にやってきます。
吉田東洋が山内家の遠い親戚やったき、重用されたなんていうお話も宅間館長からありましたが、土佐は古くから南向きの内湾を持つ『美濃・尾張・三河』や『相模・武蔵』とこじゃんと密接な関係があります。
この謎を解くがが”黒潮海人族”であり、アテナイの文化を享受する以前にフェニキアの海人族の文化が根づいちょったがですね。
このアテナイのギリシャ・ローマとフェニキアは淡路島によく似たシチリア島の領有権を巡って衝突するわけですが、どちらにも渦潮が存在します。
日本神話がなぜ、淡路島から始まるかは、ギリシャ・ローマとフェニキアの関係を調べたら半分くらい理解できます。
土佐と美濃、相模の深いつながりは、実はその頃から始まっちょって伊豆の制海権を握っちょったとされる悪神・天津甕星は常陸でヤマト朝廷に討伐され、美濃付近の両面宿儺も、そして土佐の八面大王も、次々と帝政ローマの帝国主義思想によって滅せられていきました。
ここまで考えて初めて、なんで元親・信親親子が色白・長身・美男子で秦の始皇帝の末裔を公言しよったかがわかってくるがやないかと思います。
中国はあまり公にはしませんが、秦の時代の人夫の中に白色人種が紛れ込んでおり、少なくとも秦が共和制ローマの影響を受けちょったことは間違いがないわけであり、それから数百年後にはネストリウス派も唐に根付いたわけやき、現代人が考える以上に地中海沿岸と極東との宗教意識や文化レベルにはほとんど格差がなく、西洋・東洋という価値観が出てこんほど東と西の文化融合は深いものであっただろうと思います。
そういうイメージを沸かさんようにしちゅうのは、”進化論”や”大航海時代”という西洋の間違った学問であり、それらを糺すためにも”元親と龍馬をつなぐミノ”の風を土佐から起こしていかないかんと思います。
これが学術的に何を示すかというたら、日本の文明の形成には朝鮮半島経由と黒潮経由の2つの文化伝播ルートがあったということ。
お米雑学にも書かれている通り、米の伝播ルートである朝鮮半島経由の温帯ジャポニカと黒潮経由の熱帯ジャポニカは、平安時代頃まで混在して栽培されていたそうなんですね。
街づくりカフェ・街カフェTVの藤島さんは、この2つの伝播ルートを仏教に焦点をあてて北伝・南伝と呼んじょりますが、自分はお米の伝播『ウィキペディア(Wikipedia)』にこじゃんと興味があります。高知の二期作はおそらく、ものすごく古い起源を持っちゅうと思います。
朝鮮半島経由のほとんどの先進文化が温帯ジャポニカとともに日本に入ってきましたが、じゃあ一体、熱帯ジャポニカとともに日本に入ってきた文化はなんやったが?というところですね。
お米雑学の中でも言及されちゅう高知の登呂遺跡と言われる下分遠崎遺跡からは熱帯ジャポニカが出てきちゅうがです。それだけならまだしも下分遠崎遺跡がある香我美町は都の造りをしちゅうき、さあ大変ということながです。
正規の日本史では朝鮮半島経由の文明から日本人は文明を享受して律令国家を形成していったとされちゅうき、熱帯ジャポニカの連合国家があったらいかんがですね。
結果を先に言うたら、結局、朝鮮半島経由の温帯ジャポニカ文化は最終的には帝政ローマの帝国主義を文明の極限として完成されたがですけんど、黒潮経由の熱帯ジャポニカ文化の最終形態は、共和制ローマ・フェニキア女神崇拝の連邦制連合国家を極限としちょったということながですね。
それが日本海の越前秦氏を祖に持つ織田信長と黒潮の土佐秦氏を祖に持つ長宗我部元親の深い深いイデオロギー対立の裏側ながですね。
この問題は、日本という地政学的見地から見た根本的問題でもあり、帝政の本能(絶対王政)・共和制の本能(一君万民)、この2つが象徴的に衝突したがが、本能寺の変ということになろうかと思います。
さらには、神道で用いられる柑橘類は明らかに南方系であり、魏志倭人伝に記された邪馬台国の植生も明らかに南方系のものながです。
また、五男三女八王子の筆頭・正勝吾勝勝速日天之忍穂耳『ウィキペディア(Wikipedia)』にも代表される勝男(カツオ『ウィキペディア(Wikipedia)』)は、黒潮を北上する回遊魚であり、日本神話が太平洋側からできたことは明らかであり、神社建築の鰹木『ウィキペディア(Wikipedia)』も黒潮文化圏で発生したがは容易に想像がつきます。しかも日本で唯一、天忍穂を冠した神社が香我美町にあるがですよ。八面大王伝説もそこやし。
鰹節は、御饌(みけ)『ウィキペディア(Wikipedia)』においても重要な位置を占めます。
これを総合して考えたら、天武天皇以降、あるいは菅原道真以降、何が封じられ何が力を持ち続けゆうかを想像することはシンヨイことやろうと思います。
沖縄と高知の宗教文化がつながったら、即、邪馬台国を意味するき、温帯ジャポニカ文化圏の人たちやアメリカ人の方たちはこじゃんと都合が悪いわけです。
米軍はどういたち日本の南伝ルートを切っちょかんといかんがです。石油においても文化においても。文明の起源とされるシュメールの文化をバビロニア・フェニキア経由で多くを輸入し文明の根幹に維持し続けた日本国に原爆を落としたとあっては、アメリカ自体が悪の枢軸国になるからです。
対英米開戦後の最初の作戦・マレー作戦『ウィキペディア(Wikipedia)』を成功させてマレーの虎と言わしめたがが大豊町出身の山下 奉文(やました ともゆき)さん『ウィキペディア(Wikipedia)』。南方系ルートを開くがはどういたち土佐、もしくは熊野しかない。
結局、高知は南国土佐やき、その気候から性格が沖縄とか南方系の人たちのオープンさ・明るさにシンクロするわけやき、どういたち京に最も近い南方系の急先鋒として攻撃したりされたりという立ち回りをせんといかんがです。損な役回りやけんど仕方がない。
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これはほんまにそうで、街づくりカフェ・街カフェTVの藤島さんが展開しゆう”鳥なき島の蝙蝠”は、長宗我部元親と織田信長という戦国2大イデオローグの思想的対立の中で様々なストーリーが描かれています。
その2大イデオローグの橋渡しになったのが明智光秀であり、信長が四国征伐を決定した時点で、土岐氏・一条氏という藤原北家のテクノクラート群と対立することになったがです。
信長は藤原北家のヒエラルキーの中で下層の出身でしたから土岐氏・一条氏をアンシャンレジームに位置づけ、源平交替思想で吊るし上げる予定でしたが、結局、信長ひとりでは帝(みかど)を取り巻く秦氏から連綿と続く原始キリスト教集団のヒエラルキー結束を打ち破ることができませんでした。信長の最大の敵は藤原北家のヒエラルキーであり、その中心人物が本能寺の変時の関白であった一条内基です。
だからこそ信長は実力主義を採用しちょったわけです。日本における革命は、帝(みかど)・実力主義・源平交替思想、この3つでいつでも成し遂げられます。信長の失敗の本質は帝(みかど)を軽視したことで、武市半平太の失敗の本質は、源平交替思想を持ってなかったことです。龍馬は全部持っちょりました。
話を戻すと、一条内基のバックに長宗我部元親と明智光秀がおったがですね。2人の接点は秦氏の原始キリスト教であります。そして2人をつなぐ氏族は越前秦氏と土佐秦氏。信長も越前秦氏を先祖に持ちます。この2つをつなぐのは、草薙剣でもあります。土左大神が675年に天武天皇に神刀一口(草薙剣)を献上した時から、本能寺の変は始まっちょったというても過言ではありません。
信長がこの一派であったことは安土城を見ればわかります。今川義元を破る戦いの前に草薙剣を所蔵するとされる熱田神宮へ藤原信長という名をしたためています。
信長が革新的なキリスト教寄りの思想を持っちょったという一般的な捉え方は少し違うちょって、藤原北家自体が元々、そういうカラーであったと考えるのが自然でしょう。秀吉が関白に就任することによってその藤原北家のカラーを全て封印し、信長だけがキチガイじみた革新者というイメージを植えつけることによって、秀吉の源平交替作業は完了したがです。
信長は武田を破った後にこともあろうに今まで味方についちょってくれた藤原北家の近しい親戚たちも討ち取ることを決意したがですね。長宗我部元親は信親の名づけの時に、信長に日本の分割統治を持ちかけて連邦制の同盟を結んじょったわけですから、一方的にその同盟を破棄するがは明らかに帝国主義ですよね。四国征伐とはそういう事件です。
これが本能寺の変までの思想史的な流れであると思います。
”元親と龍馬をつなぐモノ”で配布された資料の中には、坂本世津夫さんの資料が含まれちょりましたが、坂本さんも美濃斉藤氏や美濃土岐氏にご興味があるらしく、市・学・官で本気で長宗我部を掘り起こす体制が整いつつあると思いました。
『本能寺の変 四二七年目の真実』を書かれた明智さんも安住さんのラジオに出演されたりして、より一層、追い風が吹きゆうような感じになってきちょります。この裏に歴女の存在があるというがやき、これは驚きですね。
歴史をつぶさに調べていったら、本能寺の変の裏には、秦氏(原始キリスト教)の天皇制という日本のロストワールドが見えてくるがやけんど、秀吉が天下統一を成し遂げて、完全なる情報統制を実施した前と後とでは全然違う日本がある、ということをひょっとしたら歴女の方たちは知っちゅうのかもしれませんね。
その秀吉の情報統制の中で原始キリスト教を彷彿させる色白・長身・超美形の長宗我部信親は暗殺されることになるがやけんど、長宗我部を復興させるということは土佐波多国にあった古代・秦王国を復興させるということでもあるがですね。
結局、これは大逆事件の捉え直しでもあり、天皇制に対する意識変革であり、皇国史観からの脱却でもあるがですね。
やき、長宗我部に関わることは日本を根底から揺るがす”日本を洗濯してしまう”事柄であるわけです。
それが結局、これから実現されるであろう道州制とも深く関わっちょって、長宗我部の問題は単なる歴史問題ではなくて、どちらかというと政治的な問題になってくるがやないかと思います。
冒頭で紹介した街づくりカフェ・街カフェTVの藤島さんが展開しゆう”鳥なき島の蝙蝠”の中でも、長宗我部元親(連邦制のイデオローグ)vs織田信長(帝国主義のイデオローグ)という話もでてきちょって、この問題は、古くは邪馬台国(連邦制)vsクナ国(帝国主義)、最近では自由民権運動(連邦制)vs国家神道(帝国主義)のように、日本史の中で常に出現する永遠のテーゼながですね。
この問題を積極的に検証することによって、昭和の戦争の失敗の本質も捉え直すことができ、日本人が再び未来を取り戻すためのきっかけでもあるがですね。
地上の生命は、土から生まれ土に還るわけやき、死につつある日本人が土佐に還ってくるがは必然であろうと思います。
あとは土佐人の知性だけにかかっちょります。土佐人にイデオロギーがなかったら面白くない。酒飲んで議論してイデオロギーを構築していったらひっとり変わっちゅうと思います。日本まるごと、、、
イデオロギーというもんは、突然あらわれるもんじゃなくて、密な人間関係、そこから生まれる議論、そしてそれをスムーズに進行させる潤滑油としての酒がないとだめで、これは全部、土佐の根本の文化ながですね。やき、土佐がすごいとか偉いとかいう問題ではなくて、こういうフランスのような文化が強烈にあるがは日本でも高知だけながやき、そっから日本が変わっていくというがは、足し算よりも簡単な合理的な方程式ながですね。
なんでも結果には原因があって、なんで高知県人のひとりあたりのアルコール消費量が全国一であるかというたら議論好きという原因があるがです。じゃあ、その議論好きが何を話しゆうかというたら社会の様々な問題ながです。これは古代ギリシャの民会『ウィキペディア(Wikipedia)』に起源があります。
女神崇拝・民会・直接民主制・哲学というキーワードを持つアテナイの文化は、土佐と同じです。アテナイから西洋哲学の根本を為すソクラテスやプラトンが輩出されていくのですが、土佐からもたくさんの哲学者が輩出されちょります。
哲学とは、すなわち”議論”であり、”酒”ながですね。
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高知県日高村に土岐城がありました。土岐氏は戦国土佐の歴史に密接に関わりますが、おおまかに言いまして、鎌倉・室町期を通して北関東の藤原秀郷流、新田氏系、甲斐武田氏、美濃土岐氏に関わる人たちが土佐にたくさん流れてきています。
この流れは単に、中央政界から地頭のような立場で流れ着いた、南北朝の動乱でどさくさにまぎれてやってきた、というようなもんやなくて、黒潮海人族の文化がまずベースとしてあって、その糸をたぐって皆、あっちこっち移動しよったがやないかと思います。
源氏が海人族の末裔やったというがは最近、オカルトの方面でもまことしやかにささやかれちょって、熱海の海底に沈んじゅう港湾は鎌倉幕府が使用しよったというところまで研究が進んできゆうらしい。それぐらい鎌倉幕府の実体は、まだ明らかじゃないということ。
源頼朝の父・源義朝『ウィキペディア(Wikipedia)』がなんで愛知県の知多半島の野間に埋葬されちゅうかを考えたら源氏と黒潮は、はっきりとつながってくる。野間は東日本と西日本をつなぐ廻船で栄えた街。
そこで落ち武者狩りに会うがは、なんらかの深いメタファーがある。源希義は、頼朝挙兵時に土佐で討伐された。
源為朝『ウィキペディア(Wikipedia)』の琉球王家始祖説もおもろい。ここにも源氏と黒潮というメタファーが横たわっちゅう。
土岐氏は清和源氏の流れになるらしいけんど、その起源はかなり古く、魏志倭人伝に出てくる都支(とき)国の末裔ではないかと思う。
伊都国は、北九州から高知県南西部(伊豆田)⇒高知県中央部(伊都多)へと後退し、伊豆国まで東遷している。これはもろ加茂氏の東遷ルートであり、迦毛大御神がなんで力を失っていったのかは、出雲神話が力を持ち始めたことと密接な関わりがある。
土岐とは、土を分けるクナト(岐)の大神という意味であり、三河一之宮・砥鹿神社の砥鹿ともかなり近い意味を持つ。
黒潮海人族にとって内湾を持つ平野こそ都にふさわしく、土佐湾・伊勢湾・相模湾しか彼らが拠点とできる場所はない。
関東と土佐のつながり、美濃と土佐のつながりは、この文脈でみていくとかなりおもしろい。
一条兼良は、斎藤妙椿の招きで美濃におもむき、文明5年(1473年)には『ふぢ河の記』を執筆していますし、その長子・一条教房は土佐国幡多荘に下向している。これが土佐一条氏の始まり。けんど土佐国幡多荘からは聖徳太子の懐刀である七星剣が出ちゅう。幡多荘は皇室の単なる荘園ではない。皇室を作った秦氏・賀茂氏の元々の出元、『随書』に記された秦王国は、まさにこの幡多荘。
幡多荘にある延喜式内社・高知坐神社の高知はコウチやなくてタカチ。高知は天皇の隠語で、高い所からしろしめすという意味。万葉集にも出てくる。これがハツクニシラスという初代天皇をあらわす称号につながっていったがは想像にかたくない。
一条氏は藤原北家であり、そこに日本海海人族(海部氏・越前秦氏)も入ってくる。織田信長は越前秦氏のキリシタンやし、光秀もおそらく秦氏でキリシタン。そして長宗我部も波多国秦氏のキリシタン。
美濃斉藤氏・美濃土岐氏・信長・光秀は藤原北家一条氏でつながっちょって、『本能寺の変』時の関白は一条内基。やき、これは藤原北家キリシタン秦氏の内紛ということになる。
クナト(岐)の大神は、日本古来のサエの神と習合したサルタヒコでもあり、サルタヒコを奉祀しよったがは秦氏。
とにかく土岐氏は古い氏族であり、皇室と深い関係にあるがは戦国期に始まったことやなくて、弥生時代後期にまで遡ることができると思う。
おそらく都支国は、香川県丸亀市の土器川付近やと思う。
土岐氏に関しては、本能寺の変 「明智憲三郎的世界 天下布文!」の明智さんが詳しい。
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あんまりよくわかってなかったがですけんど、マジな話で香宗我部氏(こうそかべし)は武田氏の系統らしいですね。えーっ!
272 武田家と土佐-高知市広報「あかるいまち」2007年3月号より-(高知市歴史散歩)
ちょっとまとめてみますと
武田信義『ウィキペディア(Wikipedia)』←甲斐武田氏の初代当主 養和元年(1181年)には、後白河法皇が信義を頼朝追討使に任じたという風聞が流れ、信義は駿河守護を解任されたうえ鎌倉に召喚され、「子々孫々まで弓引くこと有るまじ」という起請文を書かされている。 |
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一条 忠頼(嫡男) | 信光(五男) | ⇔ 親族 |
新田 義重(新田氏の祖) | |
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中原秋通(子)土佐香宗我部氏の祖 | ↓ | ↓ | ||
↓ | 新田義貞(新田氏八代目当主) | |||
武田 信玄(甲斐武田家第19代当主) | ||||
頼朝は甲斐武田氏の勢力を削ごうとしちょったみたいなき、嫡男の一条 忠頼を土佐に送り込むがは充分に考えられる。でも希義の一件で恩義がある土佐を流刑地に仕立て上げるがはちょっと道義に反することやとも思いますが、、、
香宗我部氏の祖・中原秋通から見たら武田氏の祖・武田信義はおじいちゃん、ほんで新田氏の祖・新田 義重は、おばちゃんのお父さんやき、そんなに遠い親戚でもなかったと思う。
源頼朝にとって甲斐源氏武田氏と新田氏が非常に厄介な存在であったことは知らんかったですね。
先週、ゆうあい工房で長宗我部ファンクラブの集まりがありまして、その模様が明日(11/25)か明後日(11/26)のNHKで放映されるようです。18時10分くらいからの放映と言うてました。
自分もインタビューを受けましたが、たぶん全部カットされちゅうと思います(笑)。21日~23日のツアーとかシンポジウムも含めての放映やき、色々とおもしろいカットがとれちゅうと思います。
長宗我部ファンクラブとは言うても、めちゃくちゃ濃い方々が集まっちょって歴史研究会さながらの展開になってきよります。
藤島氏が提唱した多人数参加型長宗我部歴史小説『鳥無き島の蝙蝠』も、根底が徐々に出来上がりつつあり、信長と元親の思想的対比の中で様々なものが浮かび上がってきよります。
前回 三職推任問題~信長の夢は藤氏長者~ でも書いたように、元親と信長の問題は天皇家が乗り入れる日本全体の問題やき、大河ドラマには遜色ない壮大なストーリーになります。またこのことによって土佐=流刑地という、ある意味創られたプロパガンダを自分たちの手で覆していくという作業もできるわけです。
是非たくさんの人たちと一緒に掘り起こしていきたいものです。
おそらく元親の時代は、土佐人の意識がもっとも高まった第二のピークであり(第一は古代土佐、第三は幕末から自由民権運動時)、この時代を掘り起こすことによって、土佐とは何であるのか?を深く知っていくことができると思います。
その歴史への深い潜行の中で、土佐人は土佐の誇りと自由さを取り戻していけたらえいし、またそれが観光の資源にもなり、経済発展の土台になるような気もしてきております。
なんで長宗我部が人気が出てきゆうか言うたら、戦国時代にありながら自分たちとも通じる非常に現代的な感覚を持った戦国武将やったちゅうところからやないでしょうか。それと元親を知れば知るほど思想の深さがにじみ出てきて、当時そういう思想を持っちょったがは他に信長しかおらんかったがです。
その信長と元親が当時の天皇・正親町天皇を基点に政治的駆け引きを眼に見えんところで展開するわけやけんど、これが非常に面白い。
鳥無き島の蝙蝠なんかも、今までは四国=田舎というイメージを定着させるための動機付けとして利用されてきたけんど、実際は全然違う。土佐一条氏は当時、関白にまで上り詰めることができるほどの家柄やったし儀礼・作法なんかで土佐が京よりはるかに劣っちょったというイメージは後世に作られたイメージであることがわかります。
むしろ、紀貫之・菅原高視などの文学者・貴族が伝統的に土佐に来るような慣わしというか、雰囲気が土佐にあったわけで、土佐一条氏はその延長に過ぎんということながです。つまり土佐の公家文化は応仁の乱時に一条氏が下向して来た頃から始まるがやなくて、それ以前から伝統として土佐に存在したということながです。
日本書紀に土佐の記述が最初に出てくるがが、「神刀献上する」ですから既に7世紀にその伝統はあったわけです。
その伝統が失われたがは秀吉の中央集権国家確立以後です。
若者が戦国武将にはまる、もうひとつの潜在的な理由は、中央集権国家観から脱却したいという想いがあります。日本の連合国家観は土佐から始まっちゅうわけやき、その伝統を引き継いだ長宗我部が人気が出るというのはごくごく自然な流れであるとは思います。
三職推任問題(さんしょくすいにんもんだい)『ウィキペディア(Wikipedia)』という勧修寺晴豊が書いた『晴豊公記(天正十年夏記)』という日記の解釈を巡る問題があります。
何が問題になっちゅうかというたら、この日記が本能寺の変の直前に書かれたもので当時の状況がわかる第1級の資料ということで、未だ解き明かされてない本能寺の変の全貌を解く上での重要なキーになりうるもんになるということながですね。
まことしやかに言われゆう本能寺の変の後ろには朝廷内の勢力があったがやないかという説。この日記が当時の朝廷と信長のやり取りを最も詳しく書かれちゅうがですよね。
それぞれの説についてはウィキをみてもらうとして、ここでは土佐から見た解釈をひとつ。
前回、 織田信長と土佐一条家 で書いたように、本能寺の変時の関白は一条内基。本能寺の変の前年には藤氏長者(藤原氏内の最高権力者)になり、関白にまでのぼりつめています。ちなみに信長も藤原信長を自称しているように本来は藤原北家の出身です。
信長の出世スピードを超える勢いで一条内基は関白にまで上り詰めました。
表にまとめますと
一条内基 | 織田信長 | |
1534年 | 生誕 | |
1548年 | 生誕 | |
1554年 | 兄・兼冬の死により一条家本流を継ぐ | |
1558年 | 元服 正五位下 | |
1560年 | 従三位 | 今川義元を桶狭間の戦いで破る |
1565年 | 権大納言 | |
1568年 | 足利義昭を奉じて上洛。従五位 | |
1570年 | 正四位 | |
1573年 | 正二位。土佐に逗留。一条内政(長宗我部元親に養育)の元服に際し偏諱を与える。 | 足利義昭追放 室町幕府崩壊 |
1574年3月 | 従三位参議 | |
1575年春 | ||
同年6月 | 長篠の戦いで武田勝頼を破る。長篠城を防衛した奥平貞昌に偏諱を与える。 | |
同年10月 | 土佐から京都に帰京。内大臣就任。 | 長宗我部信親の烏帽子親になる |
同年11月4日 | 権大納言就任 | |
同年11月7日 | 右近衛大将就任 | |
1576年 | 右大臣就任 | 正三位→内大臣→右近衛大将兼任 |
1577年 | 左大臣就任 | 従二位→右大臣→右近衛大将兼任 |
1578年4月 | 正二位(1月6日)→右大臣兼右近衛大将を辞官(4月9日) | |
1580年 | 四国政策変更 | |
1581年 | 正親町天皇の関白に就任(藤氏長者) | |
1582年 | 従一位 | |
同年 | 本能寺の変 | 没 |
1584年 | 左大臣・関白を辞し、二条昭実に譲る |
信長は一条内基の後を追うかのように昇進していきますが、1578年4月に突然辞任。その後なんの官職にもついてなかったことが問題にされてます。
しかし、よく考えてみると自尊心の高い信長。常に内基の尻を追っかけるような自分に嫌気がさしたがやないでしょうか。信長が全ての官職を辞した後、内基は決められたかのように藤氏長者になっています。宮廷政治で内基に完全に敗北してしもうたがです。
内基が自分の後を人殺しをやって追っかけてくる信長をライバル視しよったことは間違いがなく、晴豊公記が書かれた1582年の天皇の代理「関白」は内基ですから、信長に喜んで冠位を与えるなんてことは、あろうはずがありません。しかも内基のバックには四国統一真近の長宗我部がいるわけですから、四国の武力・関白の権威・明智の裏切りによって信長の息の根を止める勝算はおおありやったと思います。
信長と親交の深かった近衞 前久(このえ さきひさ )『ウィキペディア(Wikipedia)』が、1582年の2月に太政大臣となるが、5月には辞任しています。本能寺の変の1ヶ月ほど前です。信長は1578年に内基との出世競争に負けましたが、その後、近衛家と密通し『天下平定の暁には近衛家に一国を献上する』という約束までしています。前久から太政大臣を譲位させるつもりやったがでしょう。このことを5月に知った内基が激怒し、本能寺の変で信長を討伐したというのが、裏の歴史やと思います。
信長は覇道を目指した超人とかじゃなくて、この部分だけを見たら出世だけを夢見て、皇室のテクノクラートの最高位・関白(藤氏長者)に憧れた一青年だったということがわかります。ただ、鎌倉時代から続く摂関家に一代で肉薄したという点では天才的な才能を持っちゅうと思います。しかし、信長も元は藤原氏であります。同じ藤原北家でありながら家柄だけで官位が決まってしまう世の中に対して贖ったがでしょう。この鬱憤が、家柄ではなく才能で部下を重用するという思想につながっていったがでしょう。
いずれにしても本能寺の変は、藤原北家の内紛(秦氏も絡んでいます)であり、信長最大の敵は藤氏長者・一条内基(そのバックに存在する土佐一条家と土佐長宗我部氏、ほんでそれらと繋がる自分の家臣の光秀・斉藤利三親族)ということやったでしょう。
一条内基が一条氏の次期後継者にしようとした土佐一条氏の一条内政は1580年に24歳の若さで死去しています。内基の兄・兼冬も26歳の若さで死去しています。その後、内基は6歳の若さで一条家本流を継ぐわけですが、五摂家内の藤氏長者を巡る家督相続は壮絶を極めちょったということやと思います。
一条内政の死には信長が絡んだ可能性があります、なぜなら1580年は信長の表立った四国政策変更の年。まず内基の後継者・土佐大津御所内政を亡き者にし、近衛を朝廷に暗躍させる一方で一条家の生命線・四国の切り取りを始め、関白・内基封じ込めの下準備を進めようとしていたわけです。
これに対し内基は、後ろ盾としていた土佐一条氏+長宗我部と政治工作を開始し、信長家臣団内部の一条・土岐系の明智などとも内通し、一条家を守ろうとしたわけです。
信長の四国政策変更は長宗我部と対峙するという意味と一条家との敵対関係をも暗示しちゅうわけです。美濃は元々、一条家と深いつながりがありましたから信長家臣団内部でも騒乱があったわけです。
長宗我部元親の正室は美濃斉藤氏の斉藤利三(春日局の父)の妹なんですから。斉藤利三の兄弟・石谷 頼辰(いしがい よりとき)は、山崎の合戦後、長宗我部元親に仕え、娘は長宗我部信親の正室になった。戸次川の戦いで信親と共に戦死しました。
上の項目にありますが、鎌倉時代以降家格の頂点に立った5家のことで、土佐一条家もこれに当たります。
織田信長は、この摂家になろうと試みますが、本能寺の変で討伐されてしまい、豊臣秀吉は1585年(天正13年)に近衛前久の猶子となり、藤原朝臣秀吉(近衛秀吉)として関白就任を果たしました。
しかし、その子・秀次以降は再び五摂家が摂関の座を独占するようになり、戦前までこの流れは続きます。→将来の皇后たるべき皇室嫡流の正室(すなわち皇太子妃)となるべき者は、皇族もしくは旧摂家(五摂家)の女子に限るという不文律が存在したようです。
大津御所『ウィキペディア(Wikipedia)』である一条 内政(いちじょう ただまさ)「土佐一条氏6代目当主1557年~1580年)は元親に養育されたわけですけれども、この一条内政は、一条 内基(いちじょう うちもと)『ウィキペディア(Wikipedia)』に、名前(内の字)を与えてもろうたがです。
一条 内基(1548年~1611年)は、本能寺の変の時の関白。
摂政『ウィキペディア(Wikipedia)』は、幼少の天皇の場合に置く職であり、関白『ウィキペディア(Wikipedia)』は、語源は天皇の言葉に対し、関(あずか)り白(もう)すことから来ているように、「天皇の代理人」なわけです。
その天皇の代理人である関白が、本能寺の変の9年前である1573年~7年前の1575年まで土佐に逗留し、大津御所の元服時に名前を与えちゅうわけです。(一条内政=16歳くらい・一条内基=26歳くらい・長宗我部元親=35歳くらい)
大津御所は元親(1539年~1599年)に養育されました。上に大津御所元服時のだいたいの年齢を書きましたが、おそらく元親が内基土佐逗留時に内政への偏諱を積極的に働きかけよったがやないかと思います。
ちなみに長宗我部元親が織田信長に中島可之助を派遣して信親の『信』をもろうてきて(1575年10月)、信長と不可侵条約を結んだ時は、一条内基は土佐におりました(もしくは去った直後)。
つまり元親は35歳頃に摂関家になろうとしよったわけであり、織田信長よりもかなり早い段階で戦国のならわしを創った可能性すらあります。
ちょうどその頃、京都では信長が京都を制圧し足利義昭の追討を行ったわけですき、幕府が瓦解して信長による大政奉還が成立しました。
1575年に内基は京都に帰って内大臣に就任、1576年には右大臣、1577年には左大臣へと昇進しちょります。同年1577年には織田信長が内基の直後に右大臣『ウィキペディア(Wikipedia)』に就任しています。
下記は正親町天皇朝の歴代右大臣
*****『ウィキペディア(Wikipedia)』*****
九条兼孝 1574年 - 1576年 正親町
一条内基 1576年 - 1577年 正親町
織田信長 1577年 - 1578年 正親町
二条昭実 1579年 - 1584年 正親町
今出川晴季 1585年 - 1595年 正親町、後陽成
*****『ウィキペディア(Wikipedia)』*****
しかし、信長の最高位は右大臣であったらしく、正親町天皇が抵抗して信長の昇進をさせんかったき、信長は摂関家になるために、かねてより親密であった誠仁親王を即位させようとしましたが結局、本能寺の変で立ち消えになりました。
やき、信長と一条内基は宮廷内では、こじゃんとライバルで、内基の裏には元親が隠れちゅうわけやき、本能寺の変は土佐一条家と藤原信長を名乗る織田信長の藤原北家同士の家督相続争いでもあったわけです。(信長のルーツは越前秦氏と越前藤原氏)
その争いに、はやいとこ食い込んで、戦国の摂家になろうとした元親は非常に政治的な天才であったとも言えると思います。
信長はイクサには強かったけれども宮廷政治に失敗して討伐されるわけですけれども、秀吉は両方に強く、最終的に関白に就任します。ここらへんの政治的手腕(宮廷政治家を黙らせる)を元親は一目置いて、秀吉の配下に入ったがないかとも思います。土佐一国に減封された後でも、全国に散らばる五摂家の力を後ろ盾にしたら、2度目の本能寺を起こすことは可能やったはずですから。織田信長は少なくとも藤原氏の傍流やき、血統は悪くはないけんど秀吉は百姓の出で関白就任なんかとんでもない、当時はそう思われちょったと思います。
おそらく秀吉は、バテレン追放令を含めた政治的画策で、秦氏や藤原氏などの天皇家に近い古代氏族の封じ込めに成功したがやないかと思います。
この政治的画策は徳川家康にも引き継がれ、土佐の政治的地位はどん底にまで降下させられるわけです。その鬱憤が幕末に爆発するがですけんど、未だに幕末や自由民権運動の深いところの正確な探求はされてないき、これからですね。
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