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♪*♪*♪*♪*♪*♪*♪*♪*♪*♪*♪*♪*(長宗我部ファンクラブより抜粋)♪*♪*♪*♪*♪*♪*♪*♪*
「長宗我部を語る会」
(先月はNHKの取材クルーが来ちょりました) ↑歴史談義を語る馬楽さん
【日時】12月9日(水)午後7時から
【場所】高知市はりまや町3-20-1北街ビル2F
街づくりカフェ・ゆうあい工房
【お問い合わせ】090-1003-1503
お問い合わせは上記連絡先のマスター藤島氏まで♪
【内容】小浜亭馬楽氏による講談(20分程度)
講談後はわきあいあいのフリートーク
【参加費】300円(ドリンク付き)
【その他】近隣に100円パーキングあります
歴史に興味のある方もそうでない方も、ぜひ一度参加してみてください。
※小浜亭馬楽氏→「土佐物語」を中心に豊富な歴史談義を語る新進気鋭の土佐講談師
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永源寺 - 土佐藩家老・乾氏の菩提寺(南国土佐へ来てみいや)
おんちゃんのフィールドワークが、かなり深いところまで潜水してこじゃんと楽しい。
おんちゃんが書かれちゅうように、山内家は美濃土岐氏や美濃斉藤氏と密接な関係があって、不思議な縁がある。戦国時代の元親の夫人は、美濃斉藤氏の支流・斉藤利三の妹。この斉藤利三は、明智光秀とともに本能寺の変を主導しました。
その兄弟・石谷 頼辰(いしがい よりとき)は山崎の合戦後、元親の家臣になっています。美濃と土佐の土岐氏つながりは、かなりの歴史があります。
さらに遡ると一条氏というキーワードも出てきて、甲斐源氏武田氏ともつながってきます。
詳しくは→土佐武田氏(過去記事)
板垣退助の血筋も初めて土佐に流れてきたわけではなく、既に香宗我部氏として甲斐武田の一族が土佐の重要な武士団に成長しちょりました。
高知県内の仁井田神社に新田義貞が祀られちゅように、土佐では新田氏との交流もありました。武田氏の祖・武田信義の五男が甲斐武田を継ぐわけですが、その五男・信光は新田氏といとこです。
武田信義の嫡男が一条忠頼で、甲斐源氏武田氏が鎌倉幕府の脅威やったき、甲斐武田の嫡男系統が土佐に流されたということながです。
ただ、これもたまたまというか、一条忠頼はおそらく土岐・一条系の血も入っており、土佐はその系統の宝庫でもあるき、鎌倉時代の島流しの通例も『同族は同族の元に』という「鬼は外・福は内」的思考回路があったがやないかと思うわけです。
こう考えると、武田勝頼が土佐に流れてきたがも筋が通る話であり、私たち日本人は今まで間違った歴史観を持っちょったということになると思います。
つまり、中央集権的思考回路は明治以降に国家主義が台頭するにつれて、人工的に作られたものであり、明治以前はどこかの土地が日本の中心であるという感覚は日本人にはなかったものと思われます。
江戸が将軍の都であるとはいうても、それぞれの地方は自活しよったわけであり、参勤交代というシステムがなければいつでも政治的・経済的に独立できる状態やったわけです。
その自立性を失わせたがが、明治の国家改造であって、明治以前の日本を知るためには、明治期の思考回路を超越しなければ本質は捉えれることはできんということながですね。
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