《日本語のルーツ「土佐弁」》 ★感嘆詞⇒げに まっこと お~の たま~ あっぽろけ しもうた ばっさり やまった なんちゃあ いうたち ★代名詞⇒あて あし おまん おんしゃ ★名詞⇒いられ どくれ もがり いちがい おらんク おまんク ひとんク あしんク あいちゃぁんク ちゃりす ほげす てんくろう くそじんま ごくどー ひいとい ようだい ばいあい まちまい いこじ いごっそう はちきん わかいし わりことし ★副詞⇒しょう こじゃんと どだい たまるか たいちゃ びっしり ぎっちり ぼったり ばっつり ぼっちり ちっくと しゃっち ざんじ しゅっと めっそ ひっしかっぱ ひがち さいさい ★形容詞⇒へごな のかな へすこい ひやい ぬくい みぞい しわい いそしい えずい やりこい ちんな たっすい したらこい むつこい たいそい めんどい あやかしい むつい またい かあくろしい ばばひい およけない とろこい ほうやくな しんよい ★動詞⇒ひせくる びちくる ぞぶる まぎる ちゃがまる たれもつる たごる ねぶる りぐる かやる のうがわるい ほたえる そばえる たつくる うまえる えぜる ロイつく えつくる さらばえる ほりこかす はりまわす めった いぬる ぞ~くそわるい しのべる くるめる ばぶれる いこる ゾンゾンする しゅんじゅう こたう ★語尾⇒ちゅう にゃあ ちや ぜよ じゃいか やき じゃき ★活用例:こじゃんと ぞ~くそわるい(私は非常に気分が悪い) ・ちっくと待ちよってや!今からざんじいんでしゅっと来るき(ちょっと待っててね、今からすぐに家に帰って、それからまた来るから) ・さいさい来てや!(暇があったら酒の肴でも持って、いつでも飲みに来てね)
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古墳時代後期になると、横穴式石室を有する古墳が数多く出現する。北部丘陵山麓 の宇津野1・2号填、中秦泉寺の新屋敷古墳、北秦泉寺の吉弘古墳・日の岡古墳・仁井田神社裏古墳・ 淋谷古墳、東秦泉寺の土居の前古墳、南方には愛宕不動堂前古墳・秦小学校校庭古墳・愛宕神社 裏古墳・愛宕山古墳と、確認できるだけで12か所を数え、古墳の少ない高知市にあっては比較的 集中した地域となっている。これら古墳群の被葬者や築造にあたった集団が、当秦泉寺廃寺の造 営に関わった集団と何らかのつながりを有している可能性は十分にあるが、今のところそれを確 認できる傍証は得られていない。古墳時代からスムーズに秦泉寺(古代仏教)へと移行できた理由を以前にも書きましたが、そのWhyについて異なる側面から考察。
-秦泉寺廃寺(第6次調査)
-
秦泉寺と同じ時期の四国の廃寺に郡里廃寺がある。こちらもおそらく白鳳時代のもので古墳の築造に関わっていた集団が古代寺院の造営に関わっていた可能性が高い巨大寺院である。ただ大きく異なるのは、秦氏との関連が見えてこないあたり。
稲荷山古墳(埼玉県)と江田船山古墳(熊本県)の”ワカタケル大王”が≪5世紀後半≫、継体天皇の在位が507年-531年とすると熊本の馬門石を使用した石棺が出土した今城塚古墳のことを含めて考えると5世紀から6世紀にかけては西日本に限ってはある程度の中央集権が為されていたと考えても良いと思う。
では、なぜ、郡衙でもない秦泉寺に巨大寺院ができたのかを考えると、土左大神が天武天皇に神刀を献上した時の土佐神社の位置は今の場所ではなかったかもしれないという結論に達する。
やはり、土佐高賀茂大社は沈んだ黒田郡にあったのではないか。
秦泉寺に話を戻すと、すぐ西にはクマとミカヅキ。久万川が三日月形に湾曲した場所を古代よりミヅキと呼んだらしいが、クマと三日月と言えば、ツキノワグマを連想する。それを証明するかのようにすぐ南の愛宕神社には、古墳を祀った天熊社がある。天熊人とは誰なのか?
そしてすぐ近くには、現高知城の原型を築いた松王丸を祀る松熊神社がある。熊、三日月、秦泉寺。秦泉寺という巨大古代寺院の造営を手伝った先住民族とは、ツキノワグマをトーテムとする古墳時代豪族なのだろうか?浦戸湾最奥に突き出た愛宕山山頂にその古墳はある。月を水の神とすれば、それは確かに”火伏せの神”となる。ひょっとするとこれが月読命のプロトタイプなのかもしれない。
確かに秦氏の先祖は弓月君とされ、三日月をトーテムとする日本の先住民族と宗教意識がかなり近い。しかも秦氏は雄略天皇の御代に「うつまさ」を賜ったとされるが、高知の秦泉寺とミヅキの間には「うつのし」が存在し、そこに王子神社、王子の地名がある。熊野の王子信仰とは根本的に異なる地形であり、明らかに三日月トーテム族の永遠を祈った配置にしか見えない。
このことを考慮に入れて月山神社を見てみると≪秦氏=幡多国=秦王国=三日月トーテム≫にしか見えなくなってくる。
そして秦氏の西から東の進出を考えれば県下唯一の前方後円墳である平田曽我山古墳が波多国造に任命された大韓襲命(おおからそのみこと)の埋葬地であり、都佐国造の埋葬古墳が愛宕山の天熊社、そしてそこが前方後円墳であるというおんちゃんの説は全く荒唐無稽なものではなく、むしろ理に適った説と言えるのである。もし仮に都佐国造の長阿比古がナガスネヒコの兄(安日王)もしくはナガスネヒコ本人だとするならば、これまで何度も説明してきた神武東征黒潮説を完全に裏付けるものとなる。小立足尼(ひじのすくね)は、”ひじ”と読むらしいですが、スネとヒジで古代史のアキレス腱のようです。
熊本(球磨郡)、久万高原、日前(ひのくま)宮(名草宮)。全て西側にあります。神武東征が、この”夜・月トーテム”を破るのが目的だったとするならば、高知市愛宕神社天熊社に眠る”天熊人”は、名草戸畔(なぐさとべ)同様、本当に邪魔な存在だったに違いありません。しかもトベは女性首長の意味なので、”夜・月トーテム”の日本の先住民族の首長は全て女性だった可能性すらあります。
高知の女性がなぜ強いのかを考えると、この”夜・月トーテム”の雰囲気を今でも色濃く残しているから、と言わざるを得ません。都佐国造の小立足尼も尼の字がついているので、女性だった可能性もかなりありますね。
スネが半月板が2つ重なって八の字型に配置されていることからも日本の月トーテムの先住民族の代表を意味するのが単にナガスネヒコと呼んでいたのかもしれませんし、ヒジは肘、日出、秘事、さらには聖(ひじり)も連想させますし、伊予の肱川に少彦名伝承があるのを考えても、女性のなんらかの母性的な力をヒジと呼んでいたのかもしれません。
そもそも土佐の”土”は、土方(ひじかた)が代表するように≪ひじ≫と読むので、波多国を併合し都佐から土左へ変遷する際、小立足尼に敬意を表して”土”の字を使うようになったのかもしれない。
このパターンだと天武天皇に捧げた”土左大神の神刀一口”とは、神武天皇に討たれた先住民族の代表”ナガスネヒコ”の魂が宿るレガリアということになる。しかもこのナガスネヒコ(ひじのすくね)は女性だった可能性があるので、三種の神器”草薙の剣”は、女性首長”トベ”や西側のクマ文化圏をシンボライズした邪馬台国系の剣ということになる。
これを考えると土佐神社の謎の神、≪しなね様=女性≫説にも終止符がうたれる。つまり、しなね様とは神武天皇に討たれた女性首長を頂点とする邪馬台国系文化の総称であり、小立足尼や名草 戸畔にも代表されるような実在した最後の女性首長の総称でもあるのである。
愛媛県にもトベの地名があり、久万高原の入り口にあたることも決して偶然ではないだろうと思う。『伊予を愛比売といひ』の表現は、女性首長”トベ”の時代のものと思われる。
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新年明けましておめでとうございます。
今年でブログ11年目ですが、高知を巡る状況もかなり変わりました。
さて、最近読ませてもらっているすごい高知ブログです。
まずガタリ夜話さん
何がすごいのかって、高知県人の自分でも知らないような店にガンガン入ってレポートする飛び込み力と街・店・人ノスタルジーへの訴求力
そして、酒、人、音、キャンプの高知の本質を芝生パトロールなるオリジナリティで表現し続ける凄さ
真似できないブログの天才
高知に移住して来てくれてほんとに良かった。他の地域に移住されてしまってたら高知は負けてしまってたかもしれない。
次に Forest Life Hack さん
都会のセンスで高知に切り込む、切り込み方が面白い
おしゃれで新しいライフスタイルを提案してくれているような凄いブログ
四万十界隈の情報も厚く、なかなか普通の高知県人ではカバーできない視点
幡多から何かが起こる起点になる予感
次に 高知に移住したのーてんき女のブログ さん
とにかく登山とサイクリングのローカル情報がすごい
高知の人でも行ってる人はいるけど、ちゃんと文字にする素晴らしさと
当たり前を当たり前としない移住してきた方ならではの視点は大事だと思います。
桂浜行ってきた、と言うと、あんた移住者でしょ!というネイティブの突っ込み
桂浜も仁淀川もなんなら浦ノ内もすごいがやき、と言える高知にしたい
これからものーてんきさんの活躍を見守らせて頂きたいです。
最後に セイカの暮らし便り さん
嶺北に移住した滋賀の女性の方
高知の情報を独自にそしてコンスタントに発信し続けるボディーブローは
ネットパトロールしている移住界隈ではかなりの破壊力になっているのではないかと
これからも外側から来た才能を持った方々が情報を発信し続けることによって高知はもっともっと面白くなると思います。
そしてそんな方々をルーツとするさらにその先を深掘りする未来の移住の方々
10年後もさらに面白くなってることと思います。
地震が来ても人の繋がりと面白さと食料があったら生き延びられる
高知はどんだけ掘っても面白い
※紹介情報、誤りがあったらすみません。
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460年(雄略天皇4年)天皇 < 一言主 (古事記説) 712年成立
天皇 = 一言主 (日本書紀説)720年成立
天皇 >一言主 (続日本紀説)797年成立 ≪一言主流刑説勃発≫
上記のように712年以前は一言主が天皇よりも権威を持っていた。
675年 土佐大神(土佐高賀茂大社) 神刀一口 天武天皇に献上
686年 秦石勝が天武天皇の病気平癒を祈願
710年に都が平城京に遷都した時、一言主は遷都した元明天皇自身よりも
間接的に権威を持っても良いという存在であったのである。
土左大神=一言主とするのは、まだ議論が必要だが、少なくとも当時の土佐高賀茂大社に
天皇の権威を超越する神が存在したという点において一言主神を便宜的に使用する。
797年の続日本紀において初めて一言主神の流刑が言及された背景に、天皇が一言主よりも権威を持つようになったというパワーバランスの変化があったことは疑いようがない。
現在の土佐神社の祭神は、土佐風土記逸文にもよるもので、少なくとも古事記成立時の712年
あるいは、元明天皇が風土記編纂の命を713年に出したとしても、その当時の時点で
一言主は土佐の土着の神であり、天皇よりも権威を持っていたということは
100%、公然の事実であったのである。
そして
オオナムチ - アジスキタカヒコネ(迦毛大御神)
シナネ神
一言主
土左大神 - 天河命 - 浄川姫
葛木男 - 葛木咩
一言主は賀茂氏の祖神であり、アジスキは迦毛大御神という
大御神は天照と迦毛の2神だけであり
天皇よりも権威を持つというのは自然の理ということができるだろう。
都佐国造が祀る神に、後に賀茂氏が大和から流れてきて一言主神等の神格を与えただろうという説が一般的だが、そうであれば天武天皇が神刀一口を土左大神から受け取る以前に賀茂の本体が大和から土佐に遷り土着したという記述が古事記になければいけない。
以前にも書いたが、レガリアの本体(神刀の魂)が、大和の葛木山に存在するならば、天武天皇は都から近い大和葛城山からレガリアを受け取れば良いのではないか?
それに対する一般的な答えは、”いや、一言主は土佐に配流されたから”である。
しかし、古事記が編纂された元明天皇の時代には
一言主配流説は存在せず
土佐国風土記に
土左の高賀茂の大社あり、其の神のみ名を一言主尊と為す。
土佐の高賀茂大社に一言主尊
と書かれているのである。
風土記に記すべき内容として下記の五つが挙げられている。
だとするならば、風土記が編纂される時点で
大和から賀茂氏が土佐に移住し一言主を祀ったのであれば
そのことを記載しなければ風土記の意味がないはずである。
しかも、天皇よりも権威を持つ迦毛大御神について
土佐に一言主あり(いにしえ大和葛城山からうつりし)
などという中途半端なことが許されるはずがない。
大和葛城山から移ってきたのであればその経緯を記載しなければならない。
それがないというのであれば一言主は土佐土着の神であるという結論にしか達さない。
風土記は散逸しているから、その部分は喪失しているというのであれば
天武天皇は大和葛城山から賀茂のレガリアをもらえばよかったはずである。
シナトベが女神であるから、シナネは風の男神ということになる。
賀茂氏は海神族であるから風の神(シナネ、シナツヒコ)を祀るのは当然であろうし
一言(風)が、善事も悪事も一切吹き飛ばすというのは真実である。
台風は善でも悪でもない。あるいは善であり悪でもある。
台風銀座の土佐が一言主の出元であるというのは地形的必然である。
アジスキタカヒコネが高天原からの息とするならば
滋賀県の彦根と伊吹山の関係もそういう意味で捉えなおす必要があるだろう。
地震や噴火を神の御業としていたならば、台風も神の息と捉えていただろうことは自然の帰結。
天皇 = 一言主 (日本書紀説)720年成立
天皇 >一言主 (続日本紀説)797年成立 ≪一言主流刑説勃発≫
上記のように712年以前は一言主が天皇よりも権威を持っていた。
675年 土佐大神(土佐高賀茂大社) 神刀一口 天武天皇に献上
686年 秦石勝が天武天皇の病気平癒を祈願
710年に都が平城京に遷都した時、一言主は遷都した元明天皇自身よりも
間接的に権威を持っても良いという存在であったのである。
土左大神=一言主とするのは、まだ議論が必要だが、少なくとも当時の土佐高賀茂大社に
天皇の権威を超越する神が存在したという点において一言主神を便宜的に使用する。
797年の続日本紀において初めて一言主神の流刑が言及された背景に、天皇が一言主よりも権威を持つようになったというパワーバランスの変化があったことは疑いようがない。
現在の土佐神社の祭神は、土佐風土記逸文にもよるもので、少なくとも古事記成立時の712年
あるいは、元明天皇が風土記編纂の命を713年に出したとしても、その当時の時点で
一言主は土佐の土着の神であり、天皇よりも権威を持っていたということは
100%、公然の事実であったのである。
そして
オオナムチ - アジスキタカヒコネ(迦毛大御神)
シナネ神
一言主
土左大神 - 天河命 - 浄川姫
葛木男 - 葛木咩
一言主は賀茂氏の祖神であり、アジスキは迦毛大御神という
大御神は天照と迦毛の2神だけであり
天皇よりも権威を持つというのは自然の理ということができるだろう。
都佐国造が祀る神に、後に賀茂氏が大和から流れてきて一言主神等の神格を与えただろうという説が一般的だが、そうであれば天武天皇が神刀一口を土左大神から受け取る以前に賀茂の本体が大和から土佐に遷り土着したという記述が古事記になければいけない。
以前にも書いたが、レガリアの本体(神刀の魂)が、大和の葛木山に存在するならば、天武天皇は都から近い大和葛城山からレガリアを受け取れば良いのではないか?
それに対する一般的な答えは、”いや、一言主は土佐に配流されたから”である。
しかし、古事記が編纂された元明天皇の時代には
一言主配流説は存在せず
土佐国風土記に
土左の高賀茂の大社あり、其の神のみ名を一言主尊と為す。
土佐の高賀茂大社に一言主尊
と書かれているのである。
風土記に記すべき内容として下記の五つが挙げられている。
- 郡郷の名(好字を用いて)
- 産物
- 土地の肥沃の状態
- 地名の起源
- 伝えられている旧聞異事
だとするならば、風土記が編纂される時点で
大和から賀茂氏が土佐に移住し一言主を祀ったのであれば
そのことを記載しなければ風土記の意味がないはずである。
しかも、天皇よりも権威を持つ迦毛大御神について
土佐に一言主あり(いにしえ大和葛城山からうつりし)
などという中途半端なことが許されるはずがない。
大和葛城山から移ってきたのであればその経緯を記載しなければならない。
それがないというのであれば一言主は土佐土着の神であるという結論にしか達さない。
風土記は散逸しているから、その部分は喪失しているというのであれば
天武天皇は大和葛城山から賀茂のレガリアをもらえばよかったはずである。
シナトベが女神であるから、シナネは風の男神ということになる。
龍田大社においては天御柱がシナツヒコ
伊勢神宮に至っては『神風』を吹かせた風日折宮
アジスキも一言主もシナツヒコも”口”をキーワードにひとつにつながっている。
つまり、これらはギリシャ哲学でいうところのプネウマ【存在の原理】を意味している。
英語ではスピリット、インドではプラーナである。
アジスキも一言主もシナツヒコも”口”をキーワードにひとつにつながっている。
つまり、これらはギリシャ哲学でいうところのプネウマ【存在の原理】を意味している。
英語ではスピリット、インドではプラーナである。
賀茂氏は海神族であるから風の神(シナネ、シナツヒコ)を祀るのは当然であろうし
一言(風)が、善事も悪事も一切吹き飛ばすというのは真実である。
台風は善でも悪でもない。あるいは善であり悪でもある。
台風銀座の土佐が一言主の出元であるというのは地形的必然である。
アジスキタカヒコネが高天原からの息とするならば
滋賀県の彦根と伊吹山の関係もそういう意味で捉えなおす必要があるだろう。
地震や噴火を神の御業としていたならば、台風も神の息と捉えていただろうことは自然の帰結。
土佐史談192号に”「賀茂之地」はどこか”項(橋田氏作)がある。
ことの発端は『釈日本紀』にみられる”初め賀茂之地に至り、後に此の社に遷る”の一文である。
此の社が、現在の土佐神社であることは誰もが認めるところだが、初めの賀茂之地が問題なのである。
①戦国に生きた谷忠兵衛は、須崎の賀茂神社をその比定地としている。
②鹿持雅澄は、入野松原に設定している。
③竹崎五郎氏は、高知市鴨部をその比定地としている。
④伊野部重一郎氏は、入野の賀茂神社をその比定地としている。
⑤前田和男氏は、宿毛の平田あたりという説を展開している。
これらをまとめる形で橋田氏は、⑥入野の北、加持の三島神社を”初めの地”として設定した。
なかなかの推理である。
国造本紀には、都佐国造のルーツは三島溝杭とされている。
三島信仰を巡っては、伊豆と瀬戸内がそのルーツで過去、争いを起こしている。
ただ、静岡の方は、三島が3つの島を信仰するような形態に移行していること、瀬戸内のほうは、三島をそもそも神島と書いていたことからも、少し対象が異なっていたように思う。
これらに対して、土佐の三島信仰が、そのどちらから来たというよりも
以前書いた、海に沈んだ土佐沖の大陸への信仰としても面白いのではないかと思う。
津野・梼原町近辺に存在する三島神社は、普通に考えれば、伊予からの勧請とするだろう。
しかし、須崎周辺に存在する集落消滅伝承と三島信仰が大地震後、加持や津野町のほうに徐々にせりあがったことも可能性としてはないわけではない。
いずれにしても賀茂之地が波多国から都佐国に遷ったというのは可能性としてはかなりあるだろうということである。
律令制以前は、都佐国よりも波多国のほうが先進地域であったとするのは論を待たず、その後、斉明天皇が高知市の朝倉で行宮をこしらえるに至る、この100年ほどの間の激動はいかばかりかと思うほどである。
おんちゃん言うように高知のイズタ神社が3姉妹で、イズナヒコが一言主なら
イズナヒメ、イコナヒメとは一体だれなのか?という大問題が浮上してくる。
ちなみにイズノメはかなりの埋没神である。
そもそも、土佐沖にあった島が3島でそれぞれ沈んだ場所を後世に伝えるために3つのイズタ神社を作り、賀茂之地を入野から高知市内に移した。このタイミングが、ひょっとすると全て白鳳の大地震直後であった可能性も否定できない。
3つの島が連なっていたとすると、黒潮町沖、須崎沖、浜改田沖だろう。
三角型のピラミッド山を信仰していた賀茂一族が3つの島を信仰するのは、自然の理に適っている。住吉信仰もこれであり、古くは三体妙見も、そうである。
黒田、黒崎、黒鳥から見えてくる土佐初期大和王権
でも書いたように、自分の仮説は
675年に土左大神が天武天皇に神刀一口を献上した時の土佐高賀茂大社は、沈没した黒田郡にあったのではないかということである。
つまり釈日本紀に見られる「賀茂之地」とは
⑦白鳳の大地震で沈没した黒田郡である。
としたい。
ことの発端は『釈日本紀』にみられる”初め賀茂之地に至り、後に此の社に遷る”の一文である。
此の社が、現在の土佐神社であることは誰もが認めるところだが、初めの賀茂之地が問題なのである。
①戦国に生きた谷忠兵衛は、須崎の賀茂神社をその比定地としている。
②鹿持雅澄は、入野松原に設定している。
③竹崎五郎氏は、高知市鴨部をその比定地としている。
④伊野部重一郎氏は、入野の賀茂神社をその比定地としている。
⑤前田和男氏は、宿毛の平田あたりという説を展開している。
これらをまとめる形で橋田氏は、⑥入野の北、加持の三島神社を”初めの地”として設定した。
なかなかの推理である。
国造本紀には、都佐国造のルーツは三島溝杭とされている。
三島信仰を巡っては、伊豆と瀬戸内がそのルーツで過去、争いを起こしている。
ただ、静岡の方は、三島が3つの島を信仰するような形態に移行していること、瀬戸内のほうは、三島をそもそも神島と書いていたことからも、少し対象が異なっていたように思う。
これらに対して、土佐の三島信仰が、そのどちらから来たというよりも
以前書いた、海に沈んだ土佐沖の大陸への信仰としても面白いのではないかと思う。
津野・梼原町近辺に存在する三島神社は、普通に考えれば、伊予からの勧請とするだろう。
しかし、須崎周辺に存在する集落消滅伝承と三島信仰が大地震後、加持や津野町のほうに徐々にせりあがったことも可能性としてはないわけではない。
いずれにしても賀茂之地が波多国から都佐国に遷ったというのは可能性としてはかなりあるだろうということである。
律令制以前は、都佐国よりも波多国のほうが先進地域であったとするのは論を待たず、その後、斉明天皇が高知市の朝倉で行宮をこしらえるに至る、この100年ほどの間の激動はいかばかりかと思うほどである。
伊都多神社 - 御祭神は三嶋神が龍神から救った三姉妹の一人か
おんちゃん言うように高知のイズタ神社が3姉妹で、イズナヒコが一言主なら
イズナヒメ、イコナヒメとは一体だれなのか?という大問題が浮上してくる。
ちなみにイズノメはかなりの埋没神である。
そもそも、土佐沖にあった島が3島でそれぞれ沈んだ場所を後世に伝えるために3つのイズタ神社を作り、賀茂之地を入野から高知市内に移した。このタイミングが、ひょっとすると全て白鳳の大地震直後であった可能性も否定できない。
3つの島が連なっていたとすると、黒潮町沖、須崎沖、浜改田沖だろう。
三角型のピラミッド山を信仰していた賀茂一族が3つの島を信仰するのは、自然の理に適っている。住吉信仰もこれであり、古くは三体妙見も、そうである。
黒田、黒崎、黒鳥から見えてくる土佐初期大和王権
でも書いたように、自分の仮説は
675年に土左大神が天武天皇に神刀一口を献上した時の土佐高賀茂大社は、沈没した黒田郡にあったのではないかということである。
つまり釈日本紀に見られる「賀茂之地」とは
⑦白鳳の大地震で沈没した黒田郡である。
としたい。
引き続き黒田郡について
役小角と関係のあるものとして韓国広足wikiがいます。韓国と表記されるので渡来系と思われがちですが、出は物部氏の土着系らしいです。
全部、辻褄あってますよね。
つまり、大物主とは役小角のルーツを含めた物部・道教への敬意でしょう。それはつまり、卑弥呼が狗古智卑狗と戦った時に、本陣を置いた多祁理宮でもあるので多くの人は未だ、ノスタルジーを感じている。
富士山麓の御殿場市にある青龍寺は役行者の建立といわれている。
高知の青龍寺は空海の建立。中国から独鈷を投げてここに落ちたのだから、よほどのこと。東に向かっている龍のような半島の先に位置しています。
香川のこんぴらさんは、岡山の由加神社と両参りというセットであったと言われちょります。
黒崎宮は、奈良、三輪山の大神神社から分祠されてきたもの、という言い伝え。
と、言うことは、そのトッコウの峰は、三輪山のような神奈備山であった可能性が高い。これは小生の妄想ですが。
で、昨日は、その妄想を科学者の皆さんに語ってきてしまいました。その海底地形を3Dにして、どっかの方角から見たら、三輪山のような神奈備山型の山に見えないか。もし見えたら、磐座(いわくら)のような巨岩がないか。もし有ったら。
ここが海底に沈んだ町であった可能性は高くなる。ひょっとしたら伝説の黒田郡かも知れない。
などと科学者の前で妄想を暴走させたのであった。ああ恥ずかしい。
伝説と事実の間(はざま)で〔4606〕2015/11/25(今日のひまわりひっこり)
ということです。つまり、十市の琴平神社も沈んだものを再建したものである可能性もありますし、元は、由加神社のような黒田郡と香長平野の間を流れる海流を挟んだお社を持っていた可能性もあるがです。こんぴらさんの祭神は大物主ですが、なぜ大物主なのかについては、おたくレベルでは様々な説があるものの、一般的に広く認められる説は未だ存在しません。
瑜伽(ゆが)はサンスクリット語(インド)のyoga(ヨガ)の音写語で、訳は「相応」、心の制御・統一をはかる修行法のことです。密教の欠片は雑密(ぞうみつ)としてずっと以前から日本に入って来ています。yogaも伝搬していたと思われます。由加神社・蓮台寺
金毘羅権現(こんぴらごんげん)は、琴平山(象頭山)の山岳信仰と修験道が融合した神仏習合の神であり、本地仏は不動明王、毘沙門天、十一面観音など諸説ある。祭神は不詳であり、大物主(三輪大明神)、素戔嗚尊、金山彦などの説があったが現在は大物主としている。wiki金毘羅権現これも黒田郡があれば、うまく解決されるのではないでしょうか。金毘羅権現を祀ったとされる役小角は634年-701年の人とされています。65歳で亡くなっており、684年の白鳳大地震の時は、伝説が正しければ、ちょうど50歳です。
十市には、琴平山という山があり、琴平神社さんが鎮座まします。その言い伝えでは、昔、「トッコウの峰」という山があって、そこに黒崎宮というお宮さんがあった、ということ。その周囲には村もあったが、白鳳の大地震で、海に沈んでしまった。その際、海から琴平山に金色の御幣が飛んできたので、その御幣を祀って金比羅さまと呼ぶようになった、という伝説。役小角は、トッコウの峰を知らなかったでしょうか?いや、むしろこんな伝説が発生する要素を持った地に役小角が興味を示さなかったはずがありません。
伝説と事実の間(はざま)で〔4606〕2015/11/25(今日のひまわりひっこり)
葛木山と金峯山の間に石橋を架けようと思い立ち、諸国の神々を動員してこれを実現しようとした。しかし、葛木山にいる神一言主は、自らの醜悪な姿を気にして夜間しか働かなかった。そこで役行者は一言主を神であるにも関わらず、折檻して責め立てた。すると、それに耐えかねた一言主は、天皇に役行者が謀叛を企んでいると讒訴したため、役行者は彼の母親を人質にした朝廷によって捕縛され、伊豆大島へと流刑になった。こうして、架橋は沙汰やみになったという。wiki役小角一言主が土佐土着の神であるということは既に述べました。一言主が土佐土着の神であるのですから、ここで言う葛木山とは葛木ひめ神社付近のどこかの山を指すのではないでしょうか。そして役小角が橋を架けようとした”金峯山”こそ、「トッコウの峰」ではないでしょうか?だって、”金色の御幣が飛んできたトッコウ峯”を短縮すると”金峯山”になりそうですよね。つまり、役小角は白鳳地震で沈んだ黒崎の宮をなかったことにしようとする朝廷のやり方に反発して699年に伊豆に流されたのではないでしょうか?白鳳の大地震から15年後のことです。修験道自体が朝廷の歴史隠蔽への強力なアンチテーゼではなかったかと思います。
役小角と関係のあるものとして韓国広足wikiがいます。韓国と表記されるので渡来系と思われがちですが、出は物部氏の土着系らしいです。
つまり、何やら土佐の物部氏は、西から駆け上がって来る賀茂氏とどこかで和解、同盟していたらしいのです。韓国広足の呪禁は道教的な術であったと考えられているらしいですが、これこそ物部村のいざなぎ流ではないかと思います。であるから、役小角も物部系の道教。物部、道教、その南の陸地が白鳳の大地震で壊滅→役小角、真の歴史伝える→朝廷憤怒→伊豆へ配流
鴨都味波八重事代主神は、鳥越憲三郎氏によると「鴨の水辺で折り目ごとに祭られる田の神」の意であるとされ、かつて葛城氏に服属していた鴨一族の神である。土佐国式社考によると賀茂氏の神々は、古い蘇我氏あるいは物部氏の部曲であったとみられる地域にまで侵蝕して、次第に古い氏ノ神の系統を土佐西部から東に向かって塗り替えていくいくことに注視したい。
何故に彼等は賀茂(葛城)系とされなければならないのか。明白にそれが結合でき、証明されるのは、室津神社と凡氏、天忍穂別神社と物部氏のほかにみられないのである。
波多ノ国造(天韓襲命)-土佐史談復刊63号
全部、辻褄あってますよね。
つまり、大物主とは役小角のルーツを含めた物部・道教への敬意でしょう。それはつまり、卑弥呼が狗古智卑狗と戦った時に、本陣を置いた多祁理宮でもあるので多くの人は未だ、ノスタルジーを感じている。
富士山麓の御殿場市にある青龍寺は役行者の建立といわれている。
高知の青龍寺は空海の建立。中国から独鈷を投げてここに落ちたのだから、よほどのこと。東に向かっている龍のような半島の先に位置しています。
前回記事からの続きになるのですが、土佐沖に沈んだ黒田郡に関すること
黒田そのものが都を意味したのではないかという。
奈良県桜井市黒崎は朝倉宮の比定地とされている。”黒”とは一体何であろうか?
天武天皇が土佐高賀茂大社から神刀を受け取って、上賀茂神社を造営していることからも、沈没した黒田郡に存在した上鴨、下鴨にも現在の京都に存在する上賀茂神社、下鴨神社と同じような格式の高い神社があったということは容易に想像ができます。
現在の神田、鴨部あたりの古代もこの文脈で捉えないと理解できないと思います。
これは戦国時代の本山氏と長宗我部氏の戦力分布と同じですよね。岡豊の元親は、まず最初に東の香宗我部と同盟を結ぶことによって勢力を拡大していった。岡豊の卑弥呼も東の山田へ逃げて徹底抗戦した。岡豊という土地のブレーンはいつの時代も常に土佐山田、物部村あたりにあったのです。言ったら、剣山の山人文化が卑弥呼のブレーンで狗古智卑狗は長大な海軍で追い詰めるという格好になっている。これ海幸彦と山幸彦の話みたいですよね。
これは坂本龍馬と武市半平太の性格にも表れている。なぜ同じ土地で生まれた人間であるにも関わらず、一方は強烈な勤皇主義、一方は世界の国々と船で貿易したいというふうになるのか。卑弥呼の邪馬台国は魏と通商を目指す戦略であったけれども鬼道を中心とした強力な王権であったと思います(武市系)。その一方で狗古智卑狗の国は雑賀衆のように中央集権国家を徹底的に嫌う集まりだったように思います(龍馬系)。この対立なら思想的にも戦力的にも土佐で拮抗します。
土佐戦国七雄の大平氏は仁淀川河口地域から都と直結して勢力を伸ばしたみたいですし、本山氏と長宗我部の浦戸城を巡る争いは、卑弥呼と狗古智卑狗の戦いと同じようなルートを辿っていたのではあるまいか。本山氏は雑賀衆を雇い、長宗我部は根来衆を雇ったが、黒田郡という島があったため狗古智卑狗は勝利し、卑弥呼は負けたのではないか。
その怒りを鎮めるための祭りが風鎮祭”しなね祭”ではないか。天武天皇が男王中心の律令国家へと大和の政策を変更したため白鳳の大地震は起こった→それは土佐大神(高皇産尊)の怒り、あるいは卑弥呼(しなね様)の怒り→だから盛大に荒ぶる魂を祭りで鎮めなければならない→しなね祭
鳴無神社では、一言主(しなねさま、卑弥呼、アマテラス)が祀られ、黒田郡の黒崎宮では、アジスキタカヒコネ(迦毛大御神、狗古智卑狗、スサノオ)が祀られており、この2つの神社の間を八十島祭で船渡御していたのではあるまいか。ご神体は狗古智卑狗が卑弥呼を討ち取った草薙剣。
鏡王wikiは、おそらく冒頭に書いた黒の点が3つという伝説がある高知市鏡村の出身。その娘、額田王は、無理やり天武天皇と結婚させられ、十市皇女を産む。この十市はもちろん高知の十市(とおち)。新宮神社がそれを今に伝えている。中大兄皇子(天智天皇)は土佐葛木系の4人の娘を次々と天武天皇に差し出した。これは白村江の敗戦処理ではなかったと思う。高知の安芸に伝承のある蘇我赤兄も天武天皇がクーデターを起こした弘文天皇の重臣であった。
天智天皇と弘文天皇が都とした大津宮が高知市大津であったことは完全に否定できない。鏡王、十市皇女、蘇我赤兄、高知市大津が高天原山を擁する古代よりの信仰の地であること、土左日記の出発点であること、岡豊(お皇、卑弥呼)の対岸であることなど、あまりにも符号が多すぎるのである。
天智天皇もまた、クーデターを起こして葛木のルーツとも言える土佐の地に都を置いたのかもしれない。
675年 土左大神から天武天皇に神刀一口が献上される
675年 2月13日 十市皇女、阿閉皇女とともに伊勢神宮に参詣
675年 11月4日 天武天皇、高市皇子より以下、小錦より以上の大夫らに
衣、袴、褶、腰帯、脚帯、机、杖を賜う
678年 天武天皇が倉橋河の河上にたてた斎宮に出向こうとした4月7日朝に十市皇女急死
678年 天武天皇 上賀茂神社の社を造営
一定期間のみそぎを行う場所を野宮wikiと呼びますが、野市に野々宮神社と西野宮神社が存在するので、野市に野宮が設置されていた可能性は高い。
天武天皇は、上賀茂神社を造営し、伊勢の斎宮制度も確立しますが、その祭祀は土佐高賀茂の祭祀を参考にしていたのではないか。
岡豊(内宮)、大豊(外宮)、野市(野宮)、大津(近江大津宮)、黒田郡上鴨(土佐上賀茂大社)、黒田郡下鴨(土佐下鴨大社)、十市(十市皇女)、鏡村(鏡王)、安芸(蘇我赤兄)、朝倉宮(斉明天皇)
列記してみると何やら、野宮で禊した斎宮は、高知の場合は大国主の社へ向かった可能性がある。土佐町の伊勢川の大国主神社、郡頭の大国主、椙本神社の大国主。これは卑弥呼のことであり、3世紀に狗古智卑狗が卑弥呼を討った後でも、高知の人たちは卑弥呼は幽界から私たちを見守ってくれているという感覚があり、それを祀っていたようである。古墳時代を通じて黒い太陽(狗古智卑狗)によって統治されても、深紅の太陽(卑弥呼)が統治していた時代のことは忘れなかった。
本当の神話は、高皇産尊から分魂したヤマトタケル(狗古智卑狗・弟)の皇統が、幽界に行ってしまったヤマトモモソヒメ(卑弥呼・姉)を祀りつつ平和に暮らしているというものではなかったか。だからこそ土佐はタケヨリワケと呼ばれ、タケルの皇統の源泉を意味したのである。その王位を継ぐものはワカタケルと呼ばれた。
話をもとに戻しますが
卑弥呼は、243年に魏に絳青縑(こうせいけん)という織物を贈っています。紅(コウ)と青(セイ)の布です。かなりの織物技術を持っていたらしいですが、卑弥呼が岡豊に居し、その下で布師がいたというのもすべて辻褄が合いますよね。しかもそこで祀られていたのは天河命という織姫を彷彿とさせる女神。川を挟んで対岸には高天原山と葛木男神社。
卑弥呼の皇は紅でもあり、茜でもあり、夕日だったんですね。一方で狗古智卑狗は黒い太陽、朝日を祀り、卑弥呼のような貿易のできる高度な交易品を持っていなかったのかもしれません。その代り、居徳遺跡が指し示すように武器は高度なものを蓄えていた可能性が高い。
邪馬台国が魏と通信をしているということは卑弥呼は魏の武力や武器を知っていたわけであり、それと同等なものを魏から仕入れていたか、技術者を招き入れていた可能性は高い。それよりも高い戦力を狗奴国は持っていたのだから、その戦力の根源は三国時代のどこかに通じていた可能性は高い。
三国志の武器(三国志考察)
つまり、狗古智卑狗の狗奴国は銅矛祭祀を行っており、邪馬台国連合は銅鐸祭祀を引き継ぐものたちであったということである。その文化圏はちょうど土佐中央部で交錯している。
銅鐸(邪馬台国の会)
これは卑弥呼が高板山にまず退却し、そこから吉備の高島宮に敗走したという説も裏付ける。
黒田そのものが都を意味したのではないかという。
ここの黒といういう字は、点が3つしかない黒で、昔からそうじゃと、近所の人もいうけんど 「卑弥呼のくに土佐」-中町子菊これは鏡村近くの黒石の神さまを指すものだが、”黒”の下の点が元々、3つだったとすれば、黒が熊野のヤタガラスを意味していたことは偶然ではなく必然となってくる。
奈良県桜井市黒崎は朝倉宮の比定地とされている。”黒”とは一体何であろうか?
土佐国黒田ト言ハ、是ヨリ南ニ有リ。黒田、黒土、上鴨、下鴨の四郡があったということなので、沈んだ黒田郡はかなり広大な土地であっただろう。現在の京都の上賀茂神社は、天武朝の678年に社殿が造営されたので、土佐大神が天武天皇に神刀を献上した675年の3年後に天武天皇は上賀茂神社などを中心とした京都中心の律令国家を構築しようとします。その最中684年に白鳳の大地震が起きます。
此ノ地ヨリ七里バカリ沖ニトッコウノ峯トテ、東西大河ヨリ流出ル川裾 長埜、常磐両村ノ間ニ有リ。
此所ニ黒崎ノ宮トテ五穀御祭ノ御宮ナリ。
有ル時 日数三十日大雨フリ、東西ノ河々ヨリ洪水出。
黒田大埜大海ノ如クナリ、
其ノ翌日、大地震シテ、終ニ南海トナル。
琴平神社 - 684年の白鳳大地震で沈んだ黒崎之宮を再建・遷座
(南国土佐へ来てみいや)
天武天皇が土佐高賀茂大社から神刀を受け取って、上賀茂神社を造営していることからも、沈没した黒田郡に存在した上鴨、下鴨にも現在の京都に存在する上賀茂神社、下鴨神社と同じような格式の高い神社があったということは容易に想像ができます。
現在の神田、鴨部あたりの古代もこの文脈で捉えないと理解できないと思います。
郡頭神社との見解もあるように、郡頭神社は、土佐高賀茂大社に次ぐ神格。ということは、沈没した黒田、黒土、上鴨、下鴨のいずれかの郡の一之宮を鴨部に再建したという推測もできるわけです。浦戸湾を境に卑弥呼と狗古智卑狗の支配地域が分かれていた。
・・・その歴史はつまびらかではなく、往古は一宮(いちのみや)である高賀茂神社(土佐神社)に次ぐ崇拝を受け、祭儀も盛大を極めたと伝えるのみである。
【 参考・引用 】 『高知県の地名 日本歴史地名大系40』 平凡社・刊
郡頭神社- おんちゃん
これは戦国時代の本山氏と長宗我部氏の戦力分布と同じですよね。岡豊の元親は、まず最初に東の香宗我部と同盟を結ぶことによって勢力を拡大していった。岡豊の卑弥呼も東の山田へ逃げて徹底抗戦した。岡豊という土地のブレーンはいつの時代も常に土佐山田、物部村あたりにあったのです。言ったら、剣山の山人文化が卑弥呼のブレーンで狗古智卑狗は長大な海軍で追い詰めるという格好になっている。これ海幸彦と山幸彦の話みたいですよね。
これは坂本龍馬と武市半平太の性格にも表れている。なぜ同じ土地で生まれた人間であるにも関わらず、一方は強烈な勤皇主義、一方は世界の国々と船で貿易したいというふうになるのか。卑弥呼の邪馬台国は魏と通商を目指す戦略であったけれども鬼道を中心とした強力な王権であったと思います(武市系)。その一方で狗古智卑狗の国は雑賀衆のように中央集権国家を徹底的に嫌う集まりだったように思います(龍馬系)。この対立なら思想的にも戦力的にも土佐で拮抗します。
土佐戦国七雄の大平氏は仁淀川河口地域から都と直結して勢力を伸ばしたみたいですし、本山氏と長宗我部の浦戸城を巡る争いは、卑弥呼と狗古智卑狗の戦いと同じようなルートを辿っていたのではあるまいか。本山氏は雑賀衆を雇い、長宗我部は根来衆を雇ったが、黒田郡という島があったため狗古智卑狗は勝利し、卑弥呼は負けたのではないか。
土佐郡とある。これは和名鈔の地名を吉田東伍博士が現在の地名にあてたものらしい。これによると、沈んだ黒田郡以下、黒土、上鴨、下鴨郡の方が格式が高かったのではないかと思えてくる。土佐神社が存在する一宮が神戸というのは解せない。神戸は封戸wikiであり、明らかに黒田のほうが都としての格式が高い。つまり、675年に土左大神が天武天皇に神刀一口を献上した時の土佐高賀茂大社は、沈没した黒田郡にあったのではないかということである。
土佐(布師田)、高坂(高知、小高坂、久万等)、鴨部(鴨目、旭)、朝倉(朝倉、宇治)、神戸(一宮、秦)
土佐史談復刊第44号-古代土佐の歴史その四 より
その怒りを鎮めるための祭りが風鎮祭”しなね祭”ではないか。天武天皇が男王中心の律令国家へと大和の政策を変更したため白鳳の大地震は起こった→それは土佐大神(高皇産尊)の怒り、あるいは卑弥呼(しなね様)の怒り→だから盛大に荒ぶる魂を祭りで鎮めなければならない→しなね祭
鳴無神社では、一言主(しなねさま、卑弥呼、アマテラス)が祀られ、黒田郡の黒崎宮では、アジスキタカヒコネ(迦毛大御神、狗古智卑狗、スサノオ)が祀られており、この2つの神社の間を八十島祭で船渡御していたのではあるまいか。ご神体は狗古智卑狗が卑弥呼を討ち取った草薙剣。
鏡王wikiは、おそらく冒頭に書いた黒の点が3つという伝説がある高知市鏡村の出身。その娘、額田王は、無理やり天武天皇と結婚させられ、十市皇女を産む。この十市はもちろん高知の十市(とおち)。新宮神社がそれを今に伝えている。中大兄皇子(天智天皇)は土佐葛木系の4人の娘を次々と天武天皇に差し出した。これは白村江の敗戦処理ではなかったと思う。高知の安芸に伝承のある蘇我赤兄も天武天皇がクーデターを起こした弘文天皇の重臣であった。
天智天皇と弘文天皇が都とした大津宮が高知市大津であったことは完全に否定できない。鏡王、十市皇女、蘇我赤兄、高知市大津が高天原山を擁する古代よりの信仰の地であること、土左日記の出発点であること、岡豊(お皇、卑弥呼)の対岸であることなど、あまりにも符号が多すぎるのである。
天智天皇もまた、クーデターを起こして葛木のルーツとも言える土佐の地に都を置いたのかもしれない。
675年 土左大神から天武天皇に神刀一口が献上される
675年 2月13日 十市皇女、阿閉皇女とともに伊勢神宮に参詣
675年 11月4日 天武天皇、高市皇子より以下、小錦より以上の大夫らに
衣、袴、褶、腰帯、脚帯、机、杖を賜う
678年 天武天皇が倉橋河の河上にたてた斎宮に出向こうとした4月7日朝に十市皇女急死
678年 天武天皇 上賀茂神社の社を造営
一定期間のみそぎを行う場所を野宮wikiと呼びますが、野市に野々宮神社と西野宮神社が存在するので、野市に野宮が設置されていた可能性は高い。
天武天皇は、上賀茂神社を造営し、伊勢の斎宮制度も確立しますが、その祭祀は土佐高賀茂の祭祀を参考にしていたのではないか。
岡豊(内宮)、大豊(外宮)、野市(野宮)、大津(近江大津宮)、黒田郡上鴨(土佐上賀茂大社)、黒田郡下鴨(土佐下鴨大社)、十市(十市皇女)、鏡村(鏡王)、安芸(蘇我赤兄)、朝倉宮(斉明天皇)
列記してみると何やら、野宮で禊した斎宮は、高知の場合は大国主の社へ向かった可能性がある。土佐町の伊勢川の大国主神社、郡頭の大国主、椙本神社の大国主。これは卑弥呼のことであり、3世紀に狗古智卑狗が卑弥呼を討った後でも、高知の人たちは卑弥呼は幽界から私たちを見守ってくれているという感覚があり、それを祀っていたようである。古墳時代を通じて黒い太陽(狗古智卑狗)によって統治されても、深紅の太陽(卑弥呼)が統治していた時代のことは忘れなかった。
本当の神話は、高皇産尊から分魂したヤマトタケル(狗古智卑狗・弟)の皇統が、幽界に行ってしまったヤマトモモソヒメ(卑弥呼・姉)を祀りつつ平和に暮らしているというものではなかったか。だからこそ土佐はタケヨリワケと呼ばれ、タケルの皇統の源泉を意味したのである。その王位を継ぐものはワカタケルと呼ばれた。
話をもとに戻しますが
卑弥呼は、243年に魏に絳青縑(こうせいけん)という織物を贈っています。紅(コウ)と青(セイ)の布です。かなりの織物技術を持っていたらしいですが、卑弥呼が岡豊に居し、その下で布師がいたというのもすべて辻褄が合いますよね。しかもそこで祀られていたのは天河命という織姫を彷彿とさせる女神。川を挟んで対岸には高天原山と葛木男神社。
卑弥呼の皇は紅でもあり、茜でもあり、夕日だったんですね。一方で狗古智卑狗は黒い太陽、朝日を祀り、卑弥呼のような貿易のできる高度な交易品を持っていなかったのかもしれません。その代り、居徳遺跡が指し示すように武器は高度なものを蓄えていた可能性が高い。
邪馬台国が魏と通信をしているということは卑弥呼は魏の武力や武器を知っていたわけであり、それと同等なものを魏から仕入れていたか、技術者を招き入れていた可能性は高い。それよりも高い戦力を狗奴国は持っていたのだから、その戦力の根源は三国時代のどこかに通じていた可能性は高い。
三国志の武器(三国志考察)
つまり、狗古智卑狗の狗奴国は銅矛祭祀を行っており、邪馬台国連合は銅鐸祭祀を引き継ぐものたちであったということである。その文化圏はちょうど土佐中央部で交錯している。
銅鐸(邪馬台国の会)
これは卑弥呼が高板山にまず退却し、そこから吉備の高島宮に敗走したという説も裏付ける。
高知県下に無数に存在する河内神社の存在は異様である。高知の由来は、山内家が来た時に、河内中と命名した時かららしいが、”コウチが川の中を意味していた”のは全国共通であったらしい。
つまり、山内が高知に来た時は、既に高知県下に河内(コウチ)神社が無数にあり、その河内が水に”囲まれた土地”であるという共通認識が山内にも長宗我部遺臣にも存在したということである。
これに高知坐神社という存在があるから、余計にややこしい。ここで言う高知とは
「高知らす吉野の宮はたたなづく青垣ごもり川なみの清き河内そ」
つまり、高知坐神社の高知は皇(スメラ)のメタファー(隠語)であり、河内もそれと深くつながっているのである。
そしてその中州信仰が何であるのかと言うと、もちろん熊野信仰の原型、大斎原(熊野本宮)である。つまり、ややこしい議論は抜きにして、高知がその中心地であったと仮定したい。
そうすると多くの謎が説かれていく。
葛木男神社 - 御祭神の葛木男と葛木咩って「織姫」と「彦星」に似たり(南国土佐に来てみいや)
おんちゃんが書かれている通り、葛木咩大神が天河命で織姫ならば、葛木男大神は彦星である。さらに飛躍するならば、彼女らの祖神さまが土左大神であるだから、それが高皇産靈大神ならば、全ての辻褄が合う。
なぜならば、タカミムスビ(wiki)はひとり神であり、高皇産を一文字ずつ分解するならば、”高(男王)と皇(女王)を産み出す”となる。つまり、土左大神によって男と女一対の皇(スメラ)が産み出される(ミアレ)という意味である。(余談だが、その土左大神から天武天皇は神刀を受け取っている。その対象は天武天皇と持統天皇と思われる。なぜならば、二人は仲良く野口王墓に埋葬されているからである)
さらにここからが本題なのだが、冒頭に戻るとここで言うところの”高”が高知または河内のコウではないかとうことである。これが熊野の神と同じである≪男王を祀る信仰の究極化≫。王子信仰(wiki)の極限とでも言っておくべきか。高知県下に若一王子が無数に存在するが、熊野からの勧請と言うよりも、河内神社と同じ基層があると言ったほうが理解しやすい。
それを文献に重ねるならば、狗奴国の官・狗古智卑狗(コウチヒコ)ではないかと。魏志倭人伝の中では卑弥弓呼が男王で狗古智卑狗は官になっているが、それは邪馬台国側から見て、邪馬台国の行政機構を押し付けようとした痕跡であると思われる。つまり狗奴国側から言わせれば、狗古智ヒメにすべきとの主張があったはずに違いない。
その狗奴国がどこにあったかと言えば、幻の土佐海大陸・黒田郡である。現在、高知大のチームが海底調査中であるが、その存在はかなり信憑性が高いように思える。それが天武朝の白鳳の大地震で沈んだのだから、これはすごいこと。なぜならば、天武天皇はこの正史を日本書紀編纂によって消し去ってしまおうとした張本人であるからである。子供の頃、天智天皇とともに母親の斉明天皇と土佐の朝倉に逗留したことは『土佐物語』に記されているし、斉明天皇の陵とされる王墓も高知にはある。
では葛木姫(織姫)を擁していた女王は誰かと言えば、もちろん卑弥呼である。それが”しなね様”であることは言うに及ばない。一国をあげて一之宮の女王を称える地域は土佐しか存在しない。今でこそ、その信仰は薄らいできたが、少し前までは大型バスで乗り付けて皆が”しなね祭”を祝った。それが今や、参拝先がイオンモールとなってしまった。その結果民衆は、悉く根無し草になって地底を彷徨っている。
土左大神は高皇産霊だが、政治的には男王信仰に塗り替えられ、しかし、その基層には女神信仰が今でも息づき、周辺部には征服前の男王信仰が残り、周辺部の女神信仰は徹底的に消され、一之宮に守られた女神信仰だけはどこにも記載されていないのだけれども強烈に残っている。
その女王がどこに居していたかと言えば、もちろんオコウ岡豊(お皇)である。いわゆる皇大神宮の原型である。
高皇産(土左大神)信仰から、男女一対の天の川祭祀を執り行っていた倭国祭祀が、国の在り方を巡り対立。その問題の根源は今と同じ。魏呉蜀が覇権を目指して争っていた三国時代の中国を隣国に抱えた邪馬台国連合国家は、南の狗古智卑狗を中心とした狗奴国連合と北の卑弥呼を中心とした邪馬台国連合に分裂し始めていた。もちろん、男王の狗奴国は軍事大国化を目指す。そして邪馬台国は魏とよしみを通じ、通商で国を建てていく戦略に。
でも、やはり卑弥呼の戦略は誤っていたのではないかと思う。北の一大率とは吉備の温羅あるいはそれに通ずる勢力だったと思われるが、曹叡wiki(曹操の孫)と通商で渡り合うというのは愚かだったと言わざるを得ない。どちらかと言えば、自分は、孫呉とつながっていただろうと推測される狗古智卑狗よりの立ち位置である。水軍をそれほど有していない邪馬台国ですら魏と交渉していたのだから、強力な水軍を擁した狗奴国が呉とつながらなかったはずがない。
岡豊(お皇)の南には高天原山があり、山頂古墳もある。その付近には戦国時代、大津御所があり、一条内政のことについては以前書いています。
土佐は昔、都左と記されましたし、日本神話ではタケヨリワケの国となっていますから、左というのはおそらく男王を意味するのでしょう。向かって右、つまり朝日です。
つまり、これは邪馬台国連合は、結局は狗奴国に敗れたということを意味しています。倭の五王の時代は男王の時代であった可能性が高い。高板山は、その過程で皇が逃げた場所。これは神武東征記の阿岐国の多祁理宮ではないかと思います。ここで卑弥呼は七年間、戦った可能性がある。香美市の入り口、物部川の中流域には日ノ御子や五百蔵(武器庫)の地名がある。いざなぎ流wikiこそ卑弥呼の鬼道を支えた源泉。このいざなぎ流が、京都の陰陽道と全く異なる発展形態を持っているのはよく知られた事実。つまり、この土佐の物部氏が物部氏の原初であり、そのルーツは卑弥呼の鬼道を支えた鬼道集団なのである。
この物部村の多祁理宮の真北に吉備の高島宮がある。タケリ宮のタケとはもちろんタケヨリワケのタケなのである。しかも南にはアキという地名がある。現在、盲信されている神武東征ルートは、不可解なルートをたどっている。この高知版ルートは方角もルートも全く論理的である。多祁理宮から高島宮までという最短ルートがその正確性を表している。
つまり、土佐海上狗奴国の勢力は、鳴門海峡東部の制海権を握っており、剣山の西側に行宮を置くのは非常に理にかなった戦略なのである。
神武東征記中の宇佐は当然、高知の宇佐であり、岡田宮こそ、岡豊です。そこから卑弥呼は四国山上を越えて、一大率の吉備で再度、狗古智卑狗勢力と最終決戦に挑んだのではないかと思います。それがおそらく高地性集落の発生要因です。日本神話の中で二番目に生まれたのが四国であるように、日本神話は四国を中心とした四国周辺部の神話になります。
結果的に、温羅をやっつけたのは、狗奴国の狗古智卑狗勢力ということになりますよね。吉備津彦wikiが温羅をやっつけたとされていますが、実は正史においても倭迹迹日百襲姫wikiは吉備津彦のお姉さんなんですよね。つまり、正史ですら、皇統を完全に隠すことはできなかった。卑弥呼と狗古智卑狗は兄弟だったんです。それはがどういう関係性だったかというとアマテラス(卑弥呼)は高天原(山)を治め、スサノオ(狗古智卑狗)が海を治めるということが正史にも書かれている。
そして皮肉にも多祁理宮からほど近い場所にスサノオ(狗古智卑狗)が埋められたという日本一の大杉を擁する大杉神社が高知県大豊町にある。ここで言う豊とは外宮(ゲクウ)のことであり、内宮の皇大神宮がオコウにあったのだから、あるいはタケリにあったのだから、至極真っ当な話と言えるのである。
スサノオ(狗古智卑狗)が乱暴をはたらくのでアマテラス(卑弥呼)は天岩戸・多祁理宮(高板山)に隠れた。香美市には日ノ御子地名がある。全国で出雲とここだけである。そしてスサノオは草薙剣をアマテラスに献上し、それを引き継いだ土左大神が、675年に草薙剣を天武天皇に献上するのである。
おそらく、この草薙剣は狗古智卑狗が卑弥呼を斬った剣であると思う。死しても尚、幽界から日本を照らすとされた卑弥呼。それを斬った草薙剣も神聖視されないはずがない。倭の五王の時代もずっと土佐高賀茂大社にあったのだろう。
吉備津彦とモモソヒメの父親が孝霊天皇であり、その孝霊天皇が坐した都が黒田庵戸宮wikiであり、この黒田は、正史でも初期大和王権の首都とされている。つまり、白鳳地震で土佐沖に沈んだ黒田郡こそ、初期大和王権の首都なのである。
黒田は奈良県の地名によって冠された名だが、奈良においては宮古と黒田、和歌山においては日前と黒田、阪南では市役所と黒田、名張でも市役所と黒田、徳島においては国府町黒田になっている。つまり、古代の黒田は国府のような首都を表す名前だったのである。
たまたまの偶然で庵戸宮が奈良の黒田の地に比定されたが、これは決して偶然ではない。孝霊天皇以前の皇宮の多くが山間部に置かれたと伝わるのに対して、初期大和王権の首都・庵戸宮は中央に移されたという。その慣例で奈良盆地も宮古、黒田という地名がそこにつけられた(7世紀に天武天皇によってか、土佐黒田に大和王権が存在した時かはわからないが)のだろうと推測される。田は文字通り田園だろうが、黒は熊、ヤタガラスにつながる。神武天皇にヤタガラスを遣わせたのも高皇産霊尊(土左大神)である。神武天皇とニギハヤヒの争いは、そのまま狗古智卑狗(黒田宮)と卑弥呼(岡豊)の争いだろう。
黒田宮の狗古智卑狗が黒ならば、岡豊の卑弥呼は白だろう。なぜならば、卑弥呼の鬼道が物部村のいざなぎ流に支えられていたことを考えるならば、その弟であった狗古智卑狗も道教を知っていたことは間違いがないからである。
これを裏付けるように安芸の条里制に北に布師、南に黒鳥という地名が並んでいる。布師は布であり羽衣であり旗、鶴なのである。この関係性はかの大鳥大社wikiでもそうである。その南には黒鳥という地名がある。大鳥大社は、かのヤマトタケルの魂が最後に舞い降りた地である。これはヤマトタケルというよりも、土佐の古代から読み解くと、卑弥呼の復活を願う、あるいは弔いのために民衆が建てた民衆の社が始まりだったように思われる。
つまりである。初期大和王権時に私たち日本人は、人が死ねば魂は鳥となり、飛んでいくと考えていた鳥トーテムの民族だったのである。古墳時代になっても我々は鳥型埴輪を生み出していく。
整理すると、邪馬台国時代は道教、鳥トーテム、男女一対の皇統、卑弥呼は白鳥の旗、狗古智卑狗は黒鳥(ヤタガラス)の旗。このような時代にカモ氏が最も重要な地位を占めるのは至極自然な流れであろう。そして土佐神社が古代、土佐高賀茂大社と呼ばれていたこと。そこから神刀が天武天皇に献上されたこと。
鳥にとって最も重要な要素は風である。ヤマトタケルが伊吹山の白猪という”風”のメタファによってなくなるというのは、同士討ちの陰謀なのかもしれない。卑弥呼は男王に摩り替えられ、白によって同士討ちさせられ、しかも”風”によって同士討ち。土佐高賀茂大社の女神は”しなね様”。風の名である。しなね祭自体も風鎮祭の時期に行われる。
さらに言えば、初期大和王権は狗古智卑狗が卑弥呼を討った時に成立したということになるのである。その時から草薙剣は神聖視され、草草(民衆)をなぎらせる(治める)皇室の神器とされたのである。
であるから、宇佐神宮の比売大神(ひめおおかみ)ももちろん卑弥呼になりますよね。これは高知を基軸に考えるとすぐに答えが出るのです。土佐神社に西御前という神さまがいます。左が男王なら西は女王です。その西の鳴無神社から土佐神社へと神が毎年、入って来る。それが『しなね祭』です。その鳴無神社の位置が古代、宇佐と呼ばれていた土地。なぜならば、砂洲(サ)がすごいところ。このような淡水の力が強く砂洲が形成され、弓型の湾はイザナミがみそぎをした場所として古来よりあがめられました。大岐の浜などはその極限です。というかイザナミがみそぎをした橘の小門の阿波岐原こそ大岐の浜のことです。
天草から四国南部海上、熊野(熊野権現は昔、淡路島に在した)までは狗奴国でしたから、卑弥呼は、吉備で八年間戦った後、最終的には出雲に逃れて大国主になったのです。であるから、高知県では大国さまは川の神さまですよね。それもそのはず、卑弥呼はもともと、葛木ヒメ、織姫を信仰していたのですから。これは祓戸の瀬織津姫でもありますね。
神武東征記というのは、天武天皇が皇帝思想を取り入れて、男性中心の律令国家にしようとしたことがひとつ。東征したのは本当で、大和は土佐から阿波に、そこから紀州に東遷しました。ただ、台与が立って倭国大乱が治まったとあるように、男王ではこの国は治まりきらないという伝統がありますから、その最後を歴史書に記さなければまた大乱が起きるとの危惧があったのでしょう。それを示すように天武天皇は何度も土佐高賀茂大社に秦石勝を遣わしている。
おそらく、波多国は、愛媛のヒメとも価値を共有する女王国であった可能性が高い。土佐弁と幡多弁は同じ言語でありながらイントネーションが違う。東京式アクセントと京阪式アクセントである。これは驚くべき事実である。これもおそらく他の県ではありえないこと。秦氏と賀茂氏は、この古代のヒメ信仰を復活さえようとした痕跡がある。彼らは武力で制圧されていた倭の五王の時代に女神信仰と近代的な天皇制を持ち込んで古墳時代を革命していった可能性がある。
トサを都砂と記せば女王国だが、都左とすることによって男王国にした、なんらかの駆け引きがあったのではないか。しかし、女王国の伝統がある幡多は、その策略に屈せず、波多(栲幡千千姫命wiki)にしたのではあるまいか。ちなみに栲幡千千姫命は高皇産霊の子とも孫とも言われている。その夫は天忍穂耳(wiki)
ほんでもういっちょう
郡頭神社 - 延喜式神明帳の「古保里都神社」名の意味するものは?(南国土佐に来てみいや)
のおんちゃんが示した土佐中央部のクロスのレイライン。向かって右がやはり男王・天忍穂耳。そして対峙する郡頭神社の祭神は大国主。つまり、卑弥呼。浦戸湾を跨いで織姫と彦星が逢瀬。
おそらくは、土佐神社と南のどこかもセットになっているはず。それが白鳳の大地震で沈んだ黒田郡の黒崎の宮であったことも想像に難くない。なぜならば、須崎の伝承によれば、沈んだ大陸と黒田郷の間には尾道や古代吉備のように瀬戸内のような狭い海流があったとか。温羅が居城した鬼ノ城の前面も吉備の穴海(高梁川水辺のユニオンコンソーシアム)と呼ばれる地形だった。おそらく、桂浜の先には吉備の児島のような島があったに違いない。そこが狗古智卑狗が居城した狗奴国の本拠地。しかし、そこは岡豊(お皇)の卑弥呼と男女一対のスメラの皇統。その男王が居する島がアトランティスのように沈んでしまった。奇しくも、天武天皇が男子を国の中心とすべしとの詔を発布した矢先に白鳳の大地震によって。。
その時、既に我が国の正史は失われたのである。空海を除いては。
つまり、山内が高知に来た時は、既に高知県下に河内(コウチ)神社が無数にあり、その河内が水に”囲まれた土地”であるという共通認識が山内にも長宗我部遺臣にも存在したということである。
これに高知坐神社という存在があるから、余計にややこしい。ここで言う高知とは
「高知らす吉野の宮はたたなづく青垣ごもり川なみの清き河内そ」
つまり、高知坐神社の高知は皇(スメラ)のメタファー(隠語)であり、河内もそれと深くつながっているのである。
そしてその中州信仰が何であるのかと言うと、もちろん熊野信仰の原型、大斎原(熊野本宮)である。つまり、ややこしい議論は抜きにして、高知がその中心地であったと仮定したい。
そうすると多くの謎が説かれていく。
葛木男神社 - 御祭神の葛木男と葛木咩って「織姫」と「彦星」に似たり(南国土佐に来てみいや)
おんちゃんが書かれている通り、葛木咩大神が天河命で織姫ならば、葛木男大神は彦星である。さらに飛躍するならば、彼女らの祖神さまが土左大神であるだから、それが高皇産靈大神ならば、全ての辻褄が合う。
なぜならば、タカミムスビ(wiki)はひとり神であり、高皇産を一文字ずつ分解するならば、”高(男王)と皇(女王)を産み出す”となる。つまり、土左大神によって男と女一対の皇(スメラ)が産み出される(ミアレ)という意味である。(余談だが、その土左大神から天武天皇は神刀を受け取っている。その対象は天武天皇と持統天皇と思われる。なぜならば、二人は仲良く野口王墓に埋葬されているからである)
さらにここからが本題なのだが、冒頭に戻るとここで言うところの”高”が高知または河内のコウではないかとうことである。これが熊野の神と同じである≪男王を祀る信仰の究極化≫。王子信仰(wiki)の極限とでも言っておくべきか。高知県下に若一王子が無数に存在するが、熊野からの勧請と言うよりも、河内神社と同じ基層があると言ったほうが理解しやすい。
それを文献に重ねるならば、狗奴国の官・狗古智卑狗(コウチヒコ)ではないかと。魏志倭人伝の中では卑弥弓呼が男王で狗古智卑狗は官になっているが、それは邪馬台国側から見て、邪馬台国の行政機構を押し付けようとした痕跡であると思われる。つまり狗奴国側から言わせれば、狗古智ヒメにすべきとの主張があったはずに違いない。
その狗奴国がどこにあったかと言えば、幻の土佐海大陸・黒田郡である。現在、高知大のチームが海底調査中であるが、その存在はかなり信憑性が高いように思える。それが天武朝の白鳳の大地震で沈んだのだから、これはすごいこと。なぜならば、天武天皇はこの正史を日本書紀編纂によって消し去ってしまおうとした張本人であるからである。子供の頃、天智天皇とともに母親の斉明天皇と土佐の朝倉に逗留したことは『土佐物語』に記されているし、斉明天皇の陵とされる王墓も高知にはある。
では葛木姫(織姫)を擁していた女王は誰かと言えば、もちろん卑弥呼である。それが”しなね様”であることは言うに及ばない。一国をあげて一之宮の女王を称える地域は土佐しか存在しない。今でこそ、その信仰は薄らいできたが、少し前までは大型バスで乗り付けて皆が”しなね祭”を祝った。それが今や、参拝先がイオンモールとなってしまった。その結果民衆は、悉く根無し草になって地底を彷徨っている。
土左大神は高皇産霊だが、政治的には男王信仰に塗り替えられ、しかし、その基層には女神信仰が今でも息づき、周辺部には征服前の男王信仰が残り、周辺部の女神信仰は徹底的に消され、一之宮に守られた女神信仰だけはどこにも記載されていないのだけれども強烈に残っている。
その女王がどこに居していたかと言えば、もちろんオコウ岡豊(お皇)である。いわゆる皇大神宮の原型である。
高皇産(土左大神)信仰から、男女一対の天の川祭祀を執り行っていた倭国祭祀が、国の在り方を巡り対立。その問題の根源は今と同じ。魏呉蜀が覇権を目指して争っていた三国時代の中国を隣国に抱えた邪馬台国連合国家は、南の狗古智卑狗を中心とした狗奴国連合と北の卑弥呼を中心とした邪馬台国連合に分裂し始めていた。もちろん、男王の狗奴国は軍事大国化を目指す。そして邪馬台国は魏とよしみを通じ、通商で国を建てていく戦略に。
でも、やはり卑弥呼の戦略は誤っていたのではないかと思う。北の一大率とは吉備の温羅あるいはそれに通ずる勢力だったと思われるが、曹叡wiki(曹操の孫)と通商で渡り合うというのは愚かだったと言わざるを得ない。どちらかと言えば、自分は、孫呉とつながっていただろうと推測される狗古智卑狗よりの立ち位置である。水軍をそれほど有していない邪馬台国ですら魏と交渉していたのだから、強力な水軍を擁した狗奴国が呉とつながらなかったはずがない。
(247年)弓遵から引き継いだ太守・王頎は、倭の使者から邪馬台国と狗奴国との交戦の報告を受け、自ら上洛して官の決裁を仰ぐが、魏朝から邪馬台国へ援軍が送られることはなく、魏の少帝の詔書と黄幢を携えた塞曹掾史(外交官、軍使、軍司令副官など諸説あり)の張政が派遣されるに留まった。wiki帯方郡この土佐海の幻の大陸・黒田郡の狗古智卑狗勢力は、熊勢力の根源的な源泉であり、熊本や熊野とつながっていたから、かなりの水軍を操っていただろうと思われる。それに較べて、邪馬台国勢力は山上を勢力下に治めていた。鴻ノ森や高板山は、皇のほうのコウであり、神田のコウは高のほうであると思われる。高木神というのは、そういう意味において天武天皇による改竄が含まれていると思う。つまり、男性が上位にあるという皇帝思想である。
岡豊(お皇)の南には高天原山があり、山頂古墳もある。その付近には戦国時代、大津御所があり、一条内政のことについては以前書いています。
土佐は昔、都左と記されましたし、日本神話ではタケヨリワケの国となっていますから、左というのはおそらく男王を意味するのでしょう。向かって右、つまり朝日です。
つまり、これは邪馬台国連合は、結局は狗奴国に敗れたということを意味しています。倭の五王の時代は男王の時代であった可能性が高い。高板山は、その過程で皇が逃げた場所。これは神武東征記の阿岐国の多祁理宮ではないかと思います。ここで卑弥呼は七年間、戦った可能性がある。香美市の入り口、物部川の中流域には日ノ御子や五百蔵(武器庫)の地名がある。いざなぎ流wikiこそ卑弥呼の鬼道を支えた源泉。このいざなぎ流が、京都の陰陽道と全く異なる発展形態を持っているのはよく知られた事実。つまり、この土佐の物部氏が物部氏の原初であり、そのルーツは卑弥呼の鬼道を支えた鬼道集団なのである。
この物部村の多祁理宮の真北に吉備の高島宮がある。タケリ宮のタケとはもちろんタケヨリワケのタケなのである。しかも南にはアキという地名がある。現在、盲信されている神武東征ルートは、不可解なルートをたどっている。この高知版ルートは方角もルートも全く論理的である。多祁理宮から高島宮までという最短ルートがその正確性を表している。
つまり、土佐海上狗奴国の勢力は、鳴門海峡東部の制海権を握っており、剣山の西側に行宮を置くのは非常に理にかなった戦略なのである。
神武東征記中の宇佐は当然、高知の宇佐であり、岡田宮こそ、岡豊です。そこから卑弥呼は四国山上を越えて、一大率の吉備で再度、狗古智卑狗勢力と最終決戦に挑んだのではないかと思います。それがおそらく高地性集落の発生要因です。日本神話の中で二番目に生まれたのが四国であるように、日本神話は四国を中心とした四国周辺部の神話になります。
結果的に、温羅をやっつけたのは、狗奴国の狗古智卑狗勢力ということになりますよね。吉備津彦wikiが温羅をやっつけたとされていますが、実は正史においても倭迹迹日百襲姫wikiは吉備津彦のお姉さんなんですよね。つまり、正史ですら、皇統を完全に隠すことはできなかった。卑弥呼と狗古智卑狗は兄弟だったんです。それはがどういう関係性だったかというとアマテラス(卑弥呼)は高天原(山)を治め、スサノオ(狗古智卑狗)が海を治めるということが正史にも書かれている。
そして皮肉にも多祁理宮からほど近い場所にスサノオ(狗古智卑狗)が埋められたという日本一の大杉を擁する大杉神社が高知県大豊町にある。ここで言う豊とは外宮(ゲクウ)のことであり、内宮の皇大神宮がオコウにあったのだから、あるいはタケリにあったのだから、至極真っ当な話と言えるのである。
スサノオ(狗古智卑狗)が乱暴をはたらくのでアマテラス(卑弥呼)は天岩戸・多祁理宮(高板山)に隠れた。香美市には日ノ御子地名がある。全国で出雲とここだけである。そしてスサノオは草薙剣をアマテラスに献上し、それを引き継いだ土左大神が、675年に草薙剣を天武天皇に献上するのである。
おそらく、この草薙剣は狗古智卑狗が卑弥呼を斬った剣であると思う。死しても尚、幽界から日本を照らすとされた卑弥呼。それを斬った草薙剣も神聖視されないはずがない。倭の五王の時代もずっと土佐高賀茂大社にあったのだろう。
吉備津彦とモモソヒメの父親が孝霊天皇であり、その孝霊天皇が坐した都が黒田庵戸宮wikiであり、この黒田は、正史でも初期大和王権の首都とされている。つまり、白鳳地震で土佐沖に沈んだ黒田郡こそ、初期大和王権の首都なのである。
黒田は奈良県の地名によって冠された名だが、奈良においては宮古と黒田、和歌山においては日前と黒田、阪南では市役所と黒田、名張でも市役所と黒田、徳島においては国府町黒田になっている。つまり、古代の黒田は国府のような首都を表す名前だったのである。
たまたまの偶然で庵戸宮が奈良の黒田の地に比定されたが、これは決して偶然ではない。孝霊天皇以前の皇宮の多くが山間部に置かれたと伝わるのに対して、初期大和王権の首都・庵戸宮は中央に移されたという。その慣例で奈良盆地も宮古、黒田という地名がそこにつけられた(7世紀に天武天皇によってか、土佐黒田に大和王権が存在した時かはわからないが)のだろうと推測される。田は文字通り田園だろうが、黒は熊、ヤタガラスにつながる。神武天皇にヤタガラスを遣わせたのも高皇産霊尊(土左大神)である。神武天皇とニギハヤヒの争いは、そのまま狗古智卑狗(黒田宮)と卑弥呼(岡豊)の争いだろう。
黒田宮の狗古智卑狗が黒ならば、岡豊の卑弥呼は白だろう。なぜならば、卑弥呼の鬼道が物部村のいざなぎ流に支えられていたことを考えるならば、その弟であった狗古智卑狗も道教を知っていたことは間違いがないからである。
これを裏付けるように安芸の条里制に北に布師、南に黒鳥という地名が並んでいる。布師は布であり羽衣であり旗、鶴なのである。この関係性はかの大鳥大社wikiでもそうである。その南には黒鳥という地名がある。大鳥大社は、かのヤマトタケルの魂が最後に舞い降りた地である。これはヤマトタケルというよりも、土佐の古代から読み解くと、卑弥呼の復活を願う、あるいは弔いのために民衆が建てた民衆の社が始まりだったように思われる。
つまりである。初期大和王権時に私たち日本人は、人が死ねば魂は鳥となり、飛んでいくと考えていた鳥トーテムの民族だったのである。古墳時代になっても我々は鳥型埴輪を生み出していく。
整理すると、邪馬台国時代は道教、鳥トーテム、男女一対の皇統、卑弥呼は白鳥の旗、狗古智卑狗は黒鳥(ヤタガラス)の旗。このような時代にカモ氏が最も重要な地位を占めるのは至極自然な流れであろう。そして土佐神社が古代、土佐高賀茂大社と呼ばれていたこと。そこから神刀が天武天皇に献上されたこと。
鳥にとって最も重要な要素は風である。ヤマトタケルが伊吹山の白猪という”風”のメタファによってなくなるというのは、同士討ちの陰謀なのかもしれない。卑弥呼は男王に摩り替えられ、白によって同士討ちさせられ、しかも”風”によって同士討ち。土佐高賀茂大社の女神は”しなね様”。風の名である。しなね祭自体も風鎮祭の時期に行われる。
さらに言えば、初期大和王権は狗古智卑狗が卑弥呼を討った時に成立したということになるのである。その時から草薙剣は神聖視され、草草(民衆)をなぎらせる(治める)皇室の神器とされたのである。
であるから、宇佐神宮の比売大神(ひめおおかみ)ももちろん卑弥呼になりますよね。これは高知を基軸に考えるとすぐに答えが出るのです。土佐神社に西御前という神さまがいます。左が男王なら西は女王です。その西の鳴無神社から土佐神社へと神が毎年、入って来る。それが『しなね祭』です。その鳴無神社の位置が古代、宇佐と呼ばれていた土地。なぜならば、砂洲(サ)がすごいところ。このような淡水の力が強く砂洲が形成され、弓型の湾はイザナミがみそぎをした場所として古来よりあがめられました。大岐の浜などはその極限です。というかイザナミがみそぎをした橘の小門の阿波岐原こそ大岐の浜のことです。
天草から四国南部海上、熊野(熊野権現は昔、淡路島に在した)までは狗奴国でしたから、卑弥呼は、吉備で八年間戦った後、最終的には出雲に逃れて大国主になったのです。であるから、高知県では大国さまは川の神さまですよね。それもそのはず、卑弥呼はもともと、葛木ヒメ、織姫を信仰していたのですから。これは祓戸の瀬織津姫でもありますね。
神武東征記というのは、天武天皇が皇帝思想を取り入れて、男性中心の律令国家にしようとしたことがひとつ。東征したのは本当で、大和は土佐から阿波に、そこから紀州に東遷しました。ただ、台与が立って倭国大乱が治まったとあるように、男王ではこの国は治まりきらないという伝統がありますから、その最後を歴史書に記さなければまた大乱が起きるとの危惧があったのでしょう。それを示すように天武天皇は何度も土佐高賀茂大社に秦石勝を遣わしている。
おそらく、波多国は、愛媛のヒメとも価値を共有する女王国であった可能性が高い。土佐弁と幡多弁は同じ言語でありながらイントネーションが違う。東京式アクセントと京阪式アクセントである。これは驚くべき事実である。これもおそらく他の県ではありえないこと。秦氏と賀茂氏は、この古代のヒメ信仰を復活さえようとした痕跡がある。彼らは武力で制圧されていた倭の五王の時代に女神信仰と近代的な天皇制を持ち込んで古墳時代を革命していった可能性がある。
トサを都砂と記せば女王国だが、都左とすることによって男王国にした、なんらかの駆け引きがあったのではないか。しかし、女王国の伝統がある幡多は、その策略に屈せず、波多(栲幡千千姫命wiki)にしたのではあるまいか。ちなみに栲幡千千姫命は高皇産霊の子とも孫とも言われている。その夫は天忍穂耳(wiki)
ほんでもういっちょう
郡頭神社 - 延喜式神明帳の「古保里都神社」名の意味するものは?(南国土佐に来てみいや)
のおんちゃんが示した土佐中央部のクロスのレイライン。向かって右がやはり男王・天忍穂耳。そして対峙する郡頭神社の祭神は大国主。つまり、卑弥呼。浦戸湾を跨いで織姫と彦星が逢瀬。
おそらくは、土佐神社と南のどこかもセットになっているはず。それが白鳳の大地震で沈んだ黒田郡の黒崎の宮であったことも想像に難くない。なぜならば、須崎の伝承によれば、沈んだ大陸と黒田郷の間には尾道や古代吉備のように瀬戸内のような狭い海流があったとか。温羅が居城した鬼ノ城の前面も吉備の穴海(高梁川水辺のユニオンコンソーシアム)と呼ばれる地形だった。おそらく、桂浜の先には吉備の児島のような島があったに違いない。そこが狗古智卑狗が居城した狗奴国の本拠地。しかし、そこは岡豊(お皇)の卑弥呼と男女一対のスメラの皇統。その男王が居する島がアトランティスのように沈んでしまった。奇しくも、天武天皇が男子を国の中心とすべしとの詔を発布した矢先に白鳳の大地震によって。。
その時、既に我が国の正史は失われたのである。空海を除いては。
気になるので7-8世紀あたりを少しまとめてみます。
660年頃 ヒエ寺/秦泉寺/神通寺大伽藍を形成 土佐条里制 既に完成
661年 宝皇女(たからのひめみこ)「斉明天皇」 土佐朝倉で没(陵はウクルス山)
唐/新羅の暗殺計画成功→宝皇女は大和屈指の女戦略家
『土佐物語』に当時の様子は克明に記されている。
663年 白村江の戦いで高宗(こうそう)の唐に敗北 唐/新羅人が大挙として畿内に流入
※高宗※は皇帝ではなく天皇の称号を使用したことでも知られている。
673年 天武天皇即位
天武天皇は大王という呼称を天皇に改めるよう命じた。
即位の礼時 北四国 翠波峰(水の神)-豊受山(風の神)を奉祭
その後 広瀬(水の神)-龍田(風の神)を創建し、異常なスピードで奉祭
天武天皇が恐れた神風 大和路(※やまじ※)
やまじが吹いてくると考えられていた南の方角に風神シナネを配する土佐高賀茂大社
土佐高賀茂大社の主祭神アジスキタカヒコネの別名は
迦毛大御神(かものおおみかみ)
古事記内で大御神がつくのは迦毛大御神と天照大御神のみ
本来は、天照大御神→太陽神男神 迦毛大御神→風水月神女神
迦毛は鳥、風によって飛ぶ。
675年 風神土佐大神(土佐高賀茂大社) 神刀一口 天武天皇に献上
同年 風神龍田大社創建
678年 上賀茂神社創建
686年 秦石勝が天武天皇のご病気(神刀のたたり)平癒を祈願するため
土佐高賀茂大社に出戻り訪問
724年 聖武天皇即位の年に天皇勅願で行基が五台山(高知市)を開基(神亀元年)
727年 光明子 基王を生む
728年 基王が亡くなり 長屋王の変が起きる(骨は土佐へ流される)
729年 光明子 皇后へ立后(藤原氏では初の子女/聖武天皇の妻)
764年 藤原仲麻呂(恵美押勝)と淳仁天皇(淡路廃帝)が
考謙天皇/道教勢力と対立→恵美押勝の乱へと続く
塩焼王(-10月21日)を今帝として擁立
高賀茂田守が円興とともに恵美押勝の乱の混乱に乗じて
土佐高賀茂大社から一言主を連行
葛城一言主神社創建
※円興※は道教の弟子。高賀茂田守の兄。
道教が円興を使って高鴨神を土佐高賀茂大社から誘拐したのは明白。
奈良葛城が一言主の本地ならば675年の土佐大神による神刀献上時に
高鴨神の移行が行われるべき。そうでなければ天武天皇が配流先の神から
皇室守護の三種の神器である神刀を受け取ったことになります。
どう考えてもありえない話です。
ましてや神刀献上直後に京都上賀茂神社が
創建されているのは明らかな因果関係がある。
このすべての問題をクリアするひとつの事実は
一言主(高鴨神)は土佐土着の神であるということ。
土佐は淳仁天皇派だった。
764年に誘拐事件を実行するということは恵美押勝と淳仁天皇のバックに
土佐大神が存在していたことを道教は、はっきりと認識していた。
これは本能寺の変の時に、織田信長が関白・一条内基のバックに長宗我部元親が
存在することを認識していた構図と同じ。
本能寺の変のルーツは高鴨神連行事件にまで遡る。
769年 塩焼王の息子 志計志麻呂が皇位奪還を計画したとして土佐配流
高知県須崎市に供養塔
782年 氷上川継(志計志麻呂の弟/志計志麻呂本人とする説もある)の乱
これに連座して藤原 魚名が大宰府へ左遷
息子の藤原鷲取が土佐に左遷
<鬼(前王朝/土佐出雲邪馬台国)は外、福(風神)は内>戦略成功
風神だけを畿内に取り入れ、それを祀っていた先住民族を配流するという習慣が根付いた。
しかしその絶大な霊力を恐れていたため、祟りを回避する文化が京都で発達した。
元々、福を祀っていたのは鬼。そこには祟りも配流も左遷もなかった。
唐人駄馬には風神アネモス(民宿青岬)が先史時代から祀られています。
風を感じる感覚は古代人も上代人も同じ。
それほど風も吹かない龍田に風神国御柱神を祀っていること自体が非合理的。
ヨサコイには古代大和の自由と平等の雰囲気が残っています。
様々なチーム(民族)が酒(酒解神)や踊り(ウズメ神)を中心に
自由に平等に大通りを練り歩きます。
シルクロードから様々な民族が渡来して来たときに、意思疎通を図る言語は酒と踊りでした。
その後、日本語は発達し、様々な民族/宗教が融合していきました。
踊って頂ければ古代大和の雰囲気というものがおわかり頂けると思います。
そして、その後の宴にも。。。
天皇や律令国家が日本を作ったわけではありません。
様々な民族や宗教が衝突/融合を繰り返して互いに尊重し合い認め合った時に
台風のようなひとつの有機体ができ、ヤマトという国は生まれました。
その時にイブキ(息吹)が生じました。それが風神シナネです。
日本人のルーツ 台風銀座の土佐に是非、お越しくださいませ。
※印で囲んだリンクは全て『ウィキペディア(Wikipedia)』からの引用
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2011年4月 高知県室戸市尾崎海岸で第二回尾崎祭りが開催される予定です。
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660年頃 ヒエ寺/秦泉寺/神通寺大伽藍を形成 土佐条里制 既に完成
661年 宝皇女(たからのひめみこ)「斉明天皇」 土佐朝倉で没(陵はウクルス山)
唐/新羅の暗殺計画成功→宝皇女は大和屈指の女戦略家
『土佐物語』に当時の様子は克明に記されている。
663年 白村江の戦いで高宗(こうそう)の唐に敗北 唐/新羅人が大挙として畿内に流入
※高宗※は皇帝ではなく天皇の称号を使用したことでも知られている。
673年 天武天皇即位
天武天皇は大王という呼称を天皇に改めるよう命じた。
即位の礼時 北四国 翠波峰(水の神)-豊受山(風の神)を奉祭
その後 広瀬(水の神)-龍田(風の神)を創建し、異常なスピードで奉祭
天武天皇が恐れた神風 大和路(※やまじ※)
やまじが吹いてくると考えられていた南の方角に風神シナネを配する土佐高賀茂大社
土佐高賀茂大社の主祭神アジスキタカヒコネの別名は
迦毛大御神(かものおおみかみ)
古事記内で大御神がつくのは迦毛大御神と天照大御神のみ
本来は、天照大御神→太陽神男神 迦毛大御神→風水月神女神
迦毛は鳥、風によって飛ぶ。
675年 風神土佐大神(土佐高賀茂大社) 神刀一口 天武天皇に献上
同年 風神龍田大社創建
678年 上賀茂神社創建
686年 秦石勝が天武天皇のご病気(神刀のたたり)平癒を祈願するため
土佐高賀茂大社に出戻り訪問
724年 聖武天皇即位の年に天皇勅願で行基が五台山(高知市)を開基(神亀元年)
727年 光明子 基王を生む
728年 基王が亡くなり 長屋王の変が起きる(骨は土佐へ流される)
729年 光明子 皇后へ立后(藤原氏では初の子女/聖武天皇の妻)
764年 藤原仲麻呂(恵美押勝)と淳仁天皇(淡路廃帝)が
考謙天皇/道教勢力と対立→恵美押勝の乱へと続く
塩焼王(-10月21日)を今帝として擁立
高賀茂田守が円興とともに恵美押勝の乱の混乱に乗じて
土佐高賀茂大社から一言主を連行
葛城一言主神社創建
※円興※は道教の弟子。高賀茂田守の兄。
道教が円興を使って高鴨神を土佐高賀茂大社から誘拐したのは明白。
奈良葛城が一言主の本地ならば675年の土佐大神による神刀献上時に
高鴨神の移行が行われるべき。そうでなければ天武天皇が配流先の神から
皇室守護の三種の神器である神刀を受け取ったことになります。
どう考えてもありえない話です。
ましてや神刀献上直後に京都上賀茂神社が
創建されているのは明らかな因果関係がある。
このすべての問題をクリアするひとつの事実は
一言主(高鴨神)は土佐土着の神であるということ。
土佐は淳仁天皇派だった。
764年に誘拐事件を実行するということは恵美押勝と淳仁天皇のバックに
土佐大神が存在していたことを道教は、はっきりと認識していた。
これは本能寺の変の時に、織田信長が関白・一条内基のバックに長宗我部元親が
存在することを認識していた構図と同じ。
本能寺の変のルーツは高鴨神連行事件にまで遡る。
769年 塩焼王の息子 志計志麻呂が皇位奪還を計画したとして土佐配流
高知県須崎市に供養塔
782年 氷上川継(志計志麻呂の弟/志計志麻呂本人とする説もある)の乱
これに連座して藤原 魚名が大宰府へ左遷
息子の藤原鷲取が土佐に左遷
<鬼(前王朝/土佐出雲邪馬台国)は外、福(風神)は内>戦略成功
風神だけを畿内に取り入れ、それを祀っていた先住民族を配流するという習慣が根付いた。
しかしその絶大な霊力を恐れていたため、祟りを回避する文化が京都で発達した。
元々、福を祀っていたのは鬼。そこには祟りも配流も左遷もなかった。
唐人駄馬には風神アネモス(民宿青岬)が先史時代から祀られています。
風を感じる感覚は古代人も上代人も同じ。
それほど風も吹かない龍田に風神国御柱神を祀っていること自体が非合理的。
ヨサコイには古代大和の自由と平等の雰囲気が残っています。
様々なチーム(民族)が酒(酒解神)や踊り(ウズメ神)を中心に
自由に平等に大通りを練り歩きます。
シルクロードから様々な民族が渡来して来たときに、意思疎通を図る言語は酒と踊りでした。
その後、日本語は発達し、様々な民族/宗教が融合していきました。
踊って頂ければ古代大和の雰囲気というものがおわかり頂けると思います。
そして、その後の宴にも。。。
天皇や律令国家が日本を作ったわけではありません。
様々な民族や宗教が衝突/融合を繰り返して互いに尊重し合い認め合った時に
台風のようなひとつの有機体ができ、ヤマトという国は生まれました。
その時にイブキ(息吹)が生じました。それが風神シナネです。
日本人のルーツ 台風銀座の土佐に是非、お越しくださいませ。
※印で囲んだリンクは全て『ウィキペディア(Wikipedia)』からの引用
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2011年4月 高知県室戸市尾崎海岸で第二回尾崎祭りが開催される予定です。
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